原子力の意味するものと今後の原子力は?2017年03月05日 21:55

 福島の原発事故や高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉などにより、今後の原子力の在り方について多くの関心が集まっており、原子力委員会でも「原子力利用に関する基本的考え方」の議論が行われている。しかしそこで使われる原子力という言葉の意味するものが議論する人によって一致しているとはいえない。

1.初期の原子力の意味
 かつて全国共同利用研究所として東京大学原子核研究所(核研)が田無町(現西東京市)に建設されることになったときに、田無町の不安に応えて、対応に当たった朝永振一郎は研究所の目的が原子核物理学の基礎研究であって、原子力の研究は決して行わないという、決意を表明している。1954年(昭和29年)当時のことである。ここでの原子力は原子爆弾等を指しているのであろう。これには以下のような時代背景がある。
 戦後いわゆる原子力の研究開発を始めようという気運が起こったときに、学者の間では原爆研究につながるという懸念から反対論が強く、日本学術会議でもなかなか方針が決まらなかった。そのような中で、アイゼンハワー大統領の国連演説(1953年12月8日国連総会におけるAtoms for Peace演説)を受けて、いち早く動いた中曽根康弘らの政治家が1954年3月議員立法による補正予算でいわゆる原子力予算を認めさせた。その後を追って1955年12月原子力基本法、原子力委員会設置法などができ、翌年1月科学技術庁が設置され、その後、原子力研究所(原研)などが設立されていった。このとき学者たちの要望も取り入れて、原子力の利用は平和目的に限ることと、民主、自主、公開のいわゆる3原則が原子力基本法に盛り込まれた。
 しかし同時に、当時の東京大学の総長で国立大学協会(国大協)の会長であった矢内原忠雄が原子力関係法の規制から大学を除くことを求めたため(いわゆる矢内原原則)、原子力委員会設置法の法案採決の際に「原子力委員会が企画・審議・決定する関係行政機関の原子力利用に関する経費には大学における研究経費は含まないものとする」という附帯決議がなされた。矢内原は政治家の間に核研を原子力予算で運営するという動きがあったことを懸念したともいわれている。
 これは大学の自治の問題であり、大学が独自に原子力研究を行うことを妨げるものではない。実際、科学技術庁は原子力予算で原研に原子炉設置していくが、他方、科学技術庁の原子力予算とは別に、文部省は京都大学に研究用原子炉を建設し、有力大学の工学部に原子力関係学科を設置することを認めるなど、原子力研究を推進していく。
 ただし、全体的な日本の原子力政策は、科学技術庁長官が委員長となる原子力委員会において長期計画として策定される仕組みになったので、予算は別であるが大学の原子力研究者も原子力委員会の方針にそって研究するようになる。なお、その後の機構改革によって、現在の原子力委員会は文部科学省から独立し長期計画・大綱を立てる機能も持っていない。
 原子力基本法では、「原子力」とは原子核変換の過程において原子核から放出される全ての種類のエネルギーをいう、と定義されている。この定義では加速器で発生する放射線は「原子力」ではないが、いわゆる原子力業界の人たちは、定義にある核エネルギーの代表的な利用法である原子力発電(原発)や放射性同位元素による放射線利用などだけではなく、加速器等の放射線発生装置による光子や粒子ビーム等の利用も放射線利用ということで、原子力の利用であるとしている。なお、このいわゆる日本の原子力の経済規模は、福島の事故以前の調査結果では、約10兆円規模で、原発と放射線利用が半分程度ずつであった。このように日本の原子力関係者の間では原子力が意味するものに核兵器は入っていない。しかし、一般の人たちの実感としては原子力といえば核兵器と原子炉をイメージすることが多く、医学利用などの放射線利用は原子力と意識されないことが多い。
 というのも、そもそも原子力が実用化された最初のものが、核分裂反応で発生するエネルギーの利用が原子爆弾(原爆)であり、核融合反応で発生するエネルギーの利用が水素爆弾(水爆)であった。広島、長崎への原爆投下と水爆実験による第五福竜丸の被曝は原子力の怖さを日本人に印象づけていた。それ故、原子力利用を始めるにあたって学者達が懸念したのが核兵器の問題であったのは当然である。特に第五福竜丸の被爆は1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝であり、日本の原子力利用開始の議論の時期と重なっていた。

2.平和利用という名の原子力発電の始まり
 原子力発電に関しては、ソ連が1954年6月にオブニンスクの原子力発電所で世界初の実用原子力発電を開始した。実はアメリカでは多くの型式の原子炉が研究されていたのであるが、ソ連に後れを取ったアメリカは急いで発電用原子炉を開発するため、既に原子力潜水艦に使われていた軽水炉を使って民生用の発電炉を開発した。1957年12月に運転開始されたシッピングポートの原発(加圧水型軽水炉)が米国初の商業原子力発電であった。これがその後、アメリカや日本で軽水炉が多く使われることになった理由のひとつである。
 第五福竜丸後に起こった原子力に批判的な世論の高まりを懸念した米国は1955年11月に読売新聞社(正力松太郎社長)と共同で東京日比谷公園において原子力平和利用博覧会開催し、1ヶ月半で36万人余りの入場者を集めた。その後、原子力平和利用博覧会は米国大使館と地方新聞社の共催の形で全国展開していった。これにより日本の反原子力の世論が弱くなっていったと、米国CIAはその成果を評価していたことが最近明らかになっている。原子力平和利用博覧会によるキャンペーン以後、正力は自ら政界入りして原子力委員会委員長・科学技術庁長官となり、日本の原発開発を政府主導で強力に進めた。
 このため日本では自国の核兵器開発への懸念が薄れ、核兵器反対はもっぱら外国の核大国に向けられたものとなった。

3.原発の採算性
 そもそも日本が原子力発電を開始するにあたって原子力産業会議で大事故が起こったときの損害賠償費用を算定したところ、当時の国家予算規模になることが分かり、電力会社が原発開発に尻込みしたのを、万一の場合は国が支えるということで、無理に推進した経緯がある。まして福島の事故の現実を目の当たりにして、電力会社はあらためて実際に事故が起これば会社の破綻になるような大事故になる場合には確率論的リスク評価で採算性を議論しても意味がないことを自覚させられたであろう。
 したがって、賢い電力会社は、とりあえず暫くは事故がないことに賭けて、なるべく既に減価償却が済んでいるような既存の原発をギリギリまで使い切って儲けた後で、原子力から手を引くであろう。あるいは、政府が全面的に支えて、企業側としては採算性がとれるようにする、と考える場合は、今後も原発を建設するであろう。

4.核抑止力としての原発
 日本では原子力は平和利用の原発しかあり得ないと原子力関係者は無邪気に思っているが、政治家達は原子力の兵器への利用を忘れたわけではない。実際、1964年東京オリンピックの開催中の中国初の核実験直後に、佐藤栄作首相が水面下で米国に日本の核武装論を説き、それを取り下げる代わりに米国の核の傘を保証させたといわれる。福島の事故後、反原発の声が大きくなったときにも、政治家の間で核抑止力のために原発の稼働を続け、潜在的な核兵器開発の技術を維持すべきであるという意見があった。
 しかし、原発は核兵器そのものではないのだから、核兵器を作る時には、そのためにある程度の時間が必要になり、そう考えるとわざわざ原発を維持しなくても、最先端科学の基盤技術があれば、必要になったときに開発するとしても余り差はないであろう。したがって核抑止力のために原発を維持することは不経済である。

5.核抑止力としての今後の原子力政策
 政治家達がこのことに気がつけば、リスクが大きい原発を維持する動機はなくなる。核抑止力を持ちたければ核兵器開発に直接結びつく研究開発に予算を付ける方が良いにきまっているから、今後本音の議論がなされるような雰囲気になれば、政府も原発推進にこだわらなくなるかも知れない。
 佐藤栄作の時代には日本の核武装に反対した米国も同盟国の防衛費の増強を求めるトランプ大統領の時代には日本の核兵器開発を容認するかもしれない。容認しなくても増額した防衛費の一部を大学等の研究機関に大盤振る舞いして核抑止力の維持に有用な研究を支援するということは十分あり得ることである。既に防衛予算による大学への補助金の増額は始まっている。一方で文科省が大学に出す予算は財務省によって減額され続けているので、どういう事態が起こるかは火を見るより明らかである。

 6.今後の原子力の在り方
 上記の検討に基づき、今後の原子力の在り方について、結論だけ述べると、
・ 既存の原発はなるべく早く廃炉にする。40年を過ぎた原発の運転延長は認めない。
・ 建設中ないし計画中の原発は、取りあえず建設・計画を中止する。
・ プルトニウムを利用する燃料サイクルは中止し、これまでに蓄積したプルトニウムと使用済み燃料の処分法の研究は続ける。
・ 大学・研究機関では、革新的に安全な原子炉の開発研究や、核兵器に利用されにくい燃料サイクルの研究開発を行う。
・ 2030年頃に研究開発の進捗状況を世論の判断材料として示し、その時点で改めて開発された革新的な原発を利用するかどうかを判断する。
 これが電力会社の本音にもそい、国民の不安に応えるべく原子力人材を確保して、政府を含めた原子力関係者が果たすべき責任である。