歴史問題2019年09月11日 17:49

 日本では8世紀に書かれた「日本書紀」で神武天皇の即位が紀元前660年ということになっているが、朝鮮半島では13世紀に書かれた「三国遺事」で壇君王建が紀元前2333年に朝鮮国を建国したことになっている。これは神話ではあるが、韓国の歴史では、この朝鮮国を「古朝鮮」として後に中国の漢帝国(武帝)に滅ぼされるまで続いた国と考えられている。
 実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
 その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
 やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
 唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
 やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
 やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
 李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
 弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
 近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
 太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
 周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。