万葉集遣新羅使麻里布考2019年12月03日 16:39

万葉集巻15には天平8年の遣新羅使の和歌が多く掲載されている。そのなかに麻里布という場所が出てくるものがある。この麻里布は岩国の麻里布というのが通説であるが、実は田布施町南部の麻郷に麻里布(現在の地名は麻里府と書く)というところがあり、こちらが万葉集にある麻里布だという説がある。二つの説を検討してみよう。

 麻里布の歌の前には安芸の長門の浦の歌がある。この長門の浦は現在の倉橋島の南側の本浦(桂浜)とされる。麻里布の歌の後には大嶋の鳴門を過ぎて二日後の歌が追作として記されている。その後に熊毛の浦での歌があり、熊毛の浦では可良の浦であさりする鶴が鳴いていることが出てくる。室津半島の西側の尾国という場所に万葉の歌碑が建っているが、可良の浦が本当にそこであるかどうかは分からない。熊毛の浦の後に佐婆の海で風にあって豊前に流されたことが出てくる。佐婆は徳山か防府辺りであろうが、佐婆の海は周防灘である。
 航路をまとめると、倉橋島から麻里布を経て熊毛の浦に至った後、佐婆の海で風にあって豊後へ流れ着くということになる。麻里布の後で周防大島を通ったのであれば、通説のように麻里布は岩国ということになる。この場合は大嶋の鳴門を過ぎた後で南下して室津半島の先端(上関)に至りこの辺りを熊毛の浦とすることと辻褄が合う。
しかし、大嶋の鳴門の歌は二日後の追作であるから、麻里布に到着して安堵した後、大嶋の鳴門の強い流れを思い出して歌ったとも考えられる。この場合は倉橋島から直接周防大島方面に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を過ぎた後に麻里布に着いたことになる。このように考えると、麻里布を岩国ではなく、田布施町麻郷の麻里府とすることが可能で、この方がわざわざ一旦倉橋島から北上して岩国に寄り道するより海路としても自然である。
とはいえこの考えでは熊毛の浦が室津(上関町)付近だとする通説に従うと、麻里布へ行った後で熊毛の浦に後戻りすることになる。通説が信じられているのは、大嶋の鳴門を過ぎた後の海路は、南下して上関に至り室津半島を回って西に行くというのが、後世の標準的な海路であったからである。したがって通説では麻里布(岩国)、大嶋、熊毛(上関)の順となっている。
 しかし、実は古代の大島の西には柳井から新庄、余田、田布施を経て南へ抜ける別の海路があった。現在はこの海路は無く室津半島と柳井は陸続きになってしまっているが、この古柳井水道あるいは唐戸水道といわれる海路は古墳時代から平安時代頃までの重要な海路であった。この付近には熊毛王の墓といわれる前方後円墳がいくつかある。熊毛王はこの海路の海運を支配することで繁栄しヤマト政権も重視していた豪族であった。東の入り口には柳井市の茶臼山古墳がある。西の出口に近い現在の平生町の中心部は海であり、出口付近にある当時は島であった平生町の神花山古墳は女王の古墳として知られている。この水道の出口付近の平生町の対岸になるのが田布施町麻郷の麻里府である。
 麻里布の浦での歌には、粟島、可太の大嶋、祝島といった島の名前が出てくる。可太の大嶋は周防大島のことであるといわれているが、粟島は分からない。古柳井水道にある島々の中に粟島と呼ばれたものがあるのであろうか。祝島は上関町西南部にある島であるから、田布施の麻里府からは南西に望むことができるが、岩国の麻里布からは望むことはできない。岩国に停泊中に祝島のことを歌うのは不自然である。
 安芸の長門の浦(倉橋島)を出発した後、周防大島に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を抜けて、古柳井水道(唐戸水道、唐戸の瀬戸)を通って、田布施町の麻里府に至り、大嶋を思い出したり祝島を遠くから眺めたりしたと考えるのが自然である。
 なお、山口県東部の瀬戸内側は上述のように古代熊毛王の支配地で、古代には熊毛郡といわれた。天平8年の遣新羅使の10年あまり前に熊毛郡の東部が分かれて玖珂郡となったとされる。万葉集に玖珂の麻里布とあるので、岩国の麻里布と考えるのはもっともであるが、郡の名ではなく地名としての玖珂はそれ以前からあったであろうし、その地域も漠然としていた可能性があるので、田布施町の麻里府を玖珂の麻里布と呼んだこともありうることである。実際、郡としての玖珂郡と熊毛郡の境界はその後も動いている。
麻里布を田布施町麻郷の麻里府とすると、その後で立ち寄る熊毛の浦はどこになるのであろうか。室津半島(上関)に戻るのは不自然である。田布施町の麻里府から海岸伝いに西に行くと、祝島の真北にあたるところに現在の光市の室積港があり良港である。室積は徳川時代に北前船の寄港地として栄え、室積村は明治期に熊毛郡の郡役所があった地でもある。麻里布が田布施町の麻里府とした場合、この室積が麻里布の後に停泊した熊毛の浦とするのが自然である。遣新羅使はその後、室積から佐婆といわれる徳山あるいは防府の辺りに行こうとして、あるいは行った後に、周防灘(佐婆海中)で大風にあったのであろう。可良の浦に当たる場所が室積の近くに見つかれば面白いのだが。

中央の歴史学者や万葉学者は通説である倉橋島(長門の浦)―岩国(麻里布)―上関(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路を主張する。
一方、地元の柳井の歴史家達は倉橋島(長門の浦)―田布施町麻里府(麻里布)―室積(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路であると主張している。

私は山口県の出身ではないが、いま柳井に住まいして近隣を散策して考えを巡らせていると、万葉集巻15の遣新羅使の歌にある麻里布は田布施町麻郷の麻里府であるという説の方に説得力があるように思われてくる。