眞鍋淑郎氏のノーベル賞に思う「地球社会の調和ある共存」2021年10月10日 20:54

かつて文部省が各大学にそれぞれの理念を示すように要請したことがある。そんなものは今更いわれなくても伝統として存在しているという気持ちもあったが、その定められた理念に合う行動を取っているかどうかを調べてその大学の評価を行うと文部省が言うものだから、結局大学側は要請に応えて、それぞれ理念(憲章)を明文化して掲げることになった。今どこの大学のホームページを見ても理念(憲章)が掲げてある。
京都大学でも文部省に言われてやるのではないという気分もありながら、平成12年10月に部局長会議の下に設置された「京都大学の基本理念検討ワーキンググループ」が検討を重ねて成案を作成し,平成13年11月20日に長尾総長に報告書を提出し,部局長会議での審議を経て,平成13年12月4日開催の評議会に附議し承認された。
この基本理念の前文に書いてある「地球社会の調和ある共存に貢献」という文言がこの基本理念のキーワードであると強く感じた。このワーキンググループの議論については座長であった当時の赤岡副学長の説明(この説明は当初は大学のホームページにも掲載されていたが今はない。京大広報No.564 2002.1に掲載されている)に詳しく書かれており、私もその感想に気持ちを同じくするものである。

以下に京都大学の基本理念の前文と赤岡副学長のその部分の説明を掲げる。
・・・・・・・・・・・・
京都大学の基本理念 (前文)
京都大学は,創立以来築いてきた自由の学風を継承し,発展させつつ,多元的な課題の解決に挑戦し,地球社会の調和ある共存に貢献するため,自由と調和を基礎に,ここに基本理念を定める。(以下本文略)

京都大学の基本理念について (部分)
前副学長 赤岡  功
Ⅱ前文について
(自由と調和)
京都大学が学問の自由を擁護するために闘ってきた誇るべき伝統をもつこと,また,自由な研究により卓越した研究を行ってきたことはよく知られている。しかし,自由という名の下に,京都大学で様々な問題が起こっていることを指摘する人は多い。とはいえ,「自由の学風」は,京都大学の「輝く個性」として今後も継承・発展させていくべきであり,基本理念においてもこの点を基調にすることに異論はなかった。そこで,自由といってもなんらかの限定が必要ではないかとの議論となり,21世紀にふさわしいものとして人類共同体との関係を視野において自由を捉えるべきであるという意見もあり,責任ある自由などが案として考えられていた。ところで,長尾総長の「京都大学の目指すもの」と題する文章では,21世紀においては「『進歩』を追及する従来型の概念から方向転換し,『調和ある共存』という概念によって学術を進めていくことが肝要である。」とされている。この「調和ある共存」は,上の「21世紀にふさわしいものとして人類共同体との関係を視野において自由を捉えるべきであるとか,責任ある自由など」を含み,かつ新しい時代の京都大学を方向づけるものとしていいのではないかと考えられ,委員会に提案がなされた。
原案としては「人類社会の調和ある発展のため,」や「人類社会の持続的発展に貢献するため,自由と調和を基本として,」という表記があげられたが,「調和ある共存」,「自由と調和」は基本理念を支える概念として賛成をみた。
(地球社会)
ところが,「人類社会」という言葉は,これを使う委員も少なくはなかったが,強い反対があった。地球上には,人類だけではなく,動植物が生きており,人類だけを考えるのはいうなれば人間のおごりであるとされるのである。さらに,資源の枯渇,土壌汚染や地球温暖化,森林の減少,河川の氾濫などを考えれば,無生物までが視野に登場することになる。かくて,「人類社会」は「地球社会」とするのがよいということになった。また,これに関わって,「持続的発展に貢献する」にも反対があった。持続的発展のためにでは,開発に遅れてスタートした社会には問題が残るとされ,やはり調和ある共存がよいとされた。その結果,「自由の学風を継承し,発展させつつ,多元的な課題の解決に挑戦し,地球社会の調和ある共存に貢献するため」という表現に落ち着いたが,これは本当にいい文章になったと考えている。

新型コロナウィルス・・やはり見えてきた感染症ムラ2020年05月06日 12:26

東京電力福島第一発電所の事故では、原子力ムラの存在が人々の目に見えてきたが、今回の新型コロナウィルス感染症のパンデミックでは日本に感染症ムラがあるらしいことが見えてきた。
政府の専門家会議なるものはこの感染症ムラの有力者に支配されているような気が最初からしていたが、最近ますますそれが明確になってきている。
当初検査を制限したPCR検査に対する方針を決め、何ヶ月も経ってからその方針のまずさを認めないまま屁理屈をこねて実質方針変更せざるを得なくなったことを正当化する態度は、自分たちだけに通じる言葉で理屈をこねて自分たちの正しさを信じている高慢で閉鎖的なムラの生態そのものを示している。
実効再生産数についても、素人に説明しても分からないというばかりの姿勢で計算結果だけ示し、説明は今忙しくてする暇がないがその内にすると言いつつ、終息に向かっているかのように見せるなど自己中もいいところである。この実効再生産数に関しては「専門家ではない」山中伸弥教授が外国の論文を引用して大阪府などのデータを使って計算して見せており、感染症ムラの人間でなくても理解可能なものである。
山梨大学の島田眞路学長は専門家会議を痛烈に批判している。私は過激な批判をする気はないが、専門家達が、自分達が感染症ムラの論理にはまり込んでしまっていることに気がついて、国民の信頼を得るように望むのみである。

iPS細胞論文不正2018年01月24日 15:34

 京大iPS細胞研究所で論文不正があったことが明らかになった。起こるべくして起こった感がある。
 急激に成長する分野、競争の激しい分野では、不正行為は必ずといっていいほど起こると考えておく必要がある。山中所長をはじめ責任ある人達は当然そのことは想定して気をつけていたのであろうが、対策は万全とは行かなかったようである。ただ、iPS細胞研究所が置かれていた環境は対策を採ろうとしても相当に厳しいものであったように見受けられる。
 世の中に市場原理主義がまかり通り、企業経営者達が、大学のマネジメントに対して会社ではこんなやり方は通用しないなどという批判をして、大学のマネジメントを営利会社のようにするのが良いという風潮を作ってきた。とりわけ法人化以後の大学は毎年運営交付金を削減され、人員も研究費も減少していった。研究費に関しては、いわゆる競争的資金を獲得することでそれを補うように仕向けられてきた。人員については、競争的経費を獲得できた研究室ではその経費で、その資金がある年度限りの任期付きのポストを作って、若手研究者を雇うようなった。米国等でも試験的任用した後、特に問題が無ければ任期なしのポストに移れるという採用の仕方はあるが、日本で現在はびこっているのはこれとは似て非なるもので、期限が来れば財源がなくなるので、当人に問題が有る無しに関わらず、失職することになる。
 iPS細胞研究所は、大学が公表しているデータによると、約80億円の年間執行予算の内、9割が競争的資金や寄付などの外部からの資金によるもので、基盤的運営費は1割に満たないようである。他分野から見れば、iPSという日の当たる分野ならではの、羨ましいほどの外部資金を得ていることになるが、逆に言えば、それで任期付きの研究員を雇わなければ成り立たない研究所ということで、実際に職員の9割は任期付きのポストに就いているという。この状況で、将来に不安を抱く彼らが高い倫理観を持つことは、かなり困難であろう。
 山中教授が高い使命感で、iPS細胞による医療の実用化を目指していることは疑うべくもないが、今の大学の置かれている環境では大規模な実用化研究は無理である。
 ノーベル賞を受賞するまでの山中教授の研究は基礎研究であり、大学での研究にふさわしかった。しかし実用化研究レベルになると、理研など旧科学技術庁系の研究所あるいは厚労省の研究所で行い、さらに民間企業の研究へと移行すべきであろう。それにしても大学の基盤となる運営交付金の減少は、日の当たらない分野では、さらに深刻な状況になっている。政府は抜本的な制度改革を行う必要がある。文科省は大学に対して運営交付金は十分に確保して、そのうえで競争的経費を優れた研究者に配分するようにすべきである。
 身分が安定して競争がないと、怠惰になる者が出てきて研究の生産性が落ちるリスクがある。身分が不安定な環境で競わせると、研究の生産性は上がるが、取り返しのつかない信用失墜が発生するリスクがある。どちらが良いのか。首は切らずに良い成果が得られた研究者に研究費をプラスするという資金の使い方にすべきではないか。
 学問は生活のためにやるのではない代わりに好奇心が必要で、好奇心がある者が怠惰になるリスクは少ない。好奇心をなくす者もいるであろうが、そういう者を身分不安定な競争的環境に入れても学問をするとは限らず、邪なことを思いつくのみであろう。不祥事を起こすより何もしない方がましであるから、マネジメントとしては全体の歩留まりをほどよいところにおいて対処すべきか。

原子力の意味するものと今後の原子力は?2017年03月05日 21:55

 福島の原発事故や高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉などにより、今後の原子力の在り方について多くの関心が集まっており、原子力委員会でも「原子力利用に関する基本的考え方」の議論が行われている。しかしそこで使われる原子力という言葉の意味するものが議論する人によって一致しているとはいえない。

1.初期の原子力の意味
 かつて全国共同利用研究所として東京大学原子核研究所(核研)が田無町(現西東京市)に建設されることになったときに、田無町の不安に応えて、対応に当たった朝永振一郎は研究所の目的が原子核物理学の基礎研究であって、原子力の研究は決して行わないという、決意を表明している。1954年(昭和29年)当時のことである。ここでの原子力は原子爆弾等を指しているのであろう。これには以下のような時代背景がある。
 戦後いわゆる原子力の研究開発を始めようという気運が起こったときに、学者の間では原爆研究につながるという懸念から反対論が強く、日本学術会議でもなかなか方針が決まらなかった。そのような中で、アイゼンハワー大統領の国連演説(1953年12月8日国連総会におけるAtoms for Peace演説)を受けて、いち早く動いた中曽根康弘らの政治家が1954年3月議員立法による補正予算でいわゆる原子力予算を認めさせた。その後を追って1955年12月原子力基本法、原子力委員会設置法などができ、翌年1月科学技術庁が設置され、その後、原子力研究所(原研)などが設立されていった。このとき学者たちの要望も取り入れて、原子力の利用は平和目的に限ることと、民主、自主、公開のいわゆる3原則が原子力基本法に盛り込まれた。
 しかし同時に、当時の東京大学の総長で国立大学協会(国大協)の会長であった矢内原忠雄が原子力関係法の規制から大学を除くことを求めたため(いわゆる矢内原原則)、原子力委員会設置法の法案採決の際に「原子力委員会が企画・審議・決定する関係行政機関の原子力利用に関する経費には大学における研究経費は含まないものとする」という附帯決議がなされた。矢内原は政治家の間に核研を原子力予算で運営するという動きがあったことを懸念したともいわれている。
 これは大学の自治の問題であり、大学が独自に原子力研究を行うことを妨げるものではない。実際、科学技術庁は原子力予算で原研に原子炉設置していくが、他方、科学技術庁の原子力予算とは別に、文部省は京都大学に研究用原子炉を建設し、有力大学の工学部に原子力関係学科を設置することを認めるなど、原子力研究を推進していく。
 ただし、全体的な日本の原子力政策は、科学技術庁長官が委員長となる原子力委員会において長期計画として策定される仕組みになったので、予算は別であるが大学の原子力研究者も原子力委員会の方針にそって研究するようになる。なお、その後の機構改革によって、現在の原子力委員会は文部科学省から独立し長期計画・大綱を立てる機能も持っていない。
 原子力基本法では、「原子力」とは原子核変換の過程において原子核から放出される全ての種類のエネルギーをいう、と定義されている。この定義では加速器で発生する放射線は「原子力」ではないが、いわゆる原子力業界の人たちは、定義にある核エネルギーの代表的な利用法である原子力発電(原発)や放射性同位元素による放射線利用などだけではなく、加速器等の放射線発生装置による光子や粒子ビーム等の利用も放射線利用ということで、原子力の利用であるとしている。なお、このいわゆる日本の原子力の経済規模は、福島の事故以前の調査結果では、約10兆円規模で、原発と放射線利用が半分程度ずつであった。このように日本の原子力関係者の間では原子力が意味するものに核兵器は入っていない。しかし、一般の人たちの実感としては原子力といえば核兵器と原子炉をイメージすることが多く、医学利用などの放射線利用は原子力と意識されないことが多い。
 というのも、そもそも原子力が実用化された最初のものが、核分裂反応で発生するエネルギーの利用が原子爆弾(原爆)であり、核融合反応で発生するエネルギーの利用が水素爆弾(水爆)であった。広島、長崎への原爆投下と水爆実験による第五福竜丸の被曝は原子力の怖さを日本人に印象づけていた。それ故、原子力利用を始めるにあたって学者達が懸念したのが核兵器の問題であったのは当然である。特に第五福竜丸の被爆は1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝であり、日本の原子力利用開始の議論の時期と重なっていた。

2.平和利用という名の原子力発電の始まり
 原子力発電に関しては、ソ連が1954年6月にオブニンスクの原子力発電所で世界初の実用原子力発電を開始した。実はアメリカでは多くの型式の原子炉が研究されていたのであるが、ソ連に後れを取ったアメリカは急いで発電用原子炉を開発するため、既に原子力潜水艦に使われていた軽水炉を使って民生用の発電炉を開発した。1957年12月に運転開始されたシッピングポートの原発(加圧水型軽水炉)が米国初の商業原子力発電であった。これがその後、アメリカや日本で軽水炉が多く使われることになった理由のひとつである。
 第五福竜丸後に起こった原子力に批判的な世論の高まりを懸念した米国は1955年11月に読売新聞社(正力松太郎社長)と共同で東京日比谷公園において原子力平和利用博覧会開催し、1ヶ月半で36万人余りの入場者を集めた。その後、原子力平和利用博覧会は米国大使館と地方新聞社の共催の形で全国展開していった。これにより日本の反原子力の世論が弱くなっていったと、米国CIAはその成果を評価していたことが最近明らかになっている。原子力平和利用博覧会によるキャンペーン以後、正力は自ら政界入りして原子力委員会委員長・科学技術庁長官となり、日本の原発開発を政府主導で強力に進めた。
 このため日本では自国の核兵器開発への懸念が薄れ、核兵器反対はもっぱら外国の核大国に向けられたものとなった。

3.原発の採算性
 そもそも日本が原子力発電を開始するにあたって原子力産業会議で大事故が起こったときの損害賠償費用を算定したところ、当時の国家予算規模になることが分かり、電力会社が原発開発に尻込みしたのを、万一の場合は国が支えるということで、無理に推進した経緯がある。まして福島の事故の現実を目の当たりにして、電力会社はあらためて実際に事故が起これば会社の破綻になるような大事故になる場合には確率論的リスク評価で採算性を議論しても意味がないことを自覚させられたであろう。
 したがって、賢い電力会社は、とりあえず暫くは事故がないことに賭けて、なるべく既に減価償却が済んでいるような既存の原発をギリギリまで使い切って儲けた後で、原子力から手を引くであろう。あるいは、政府が全面的に支えて、企業側としては採算性がとれるようにする、と考える場合は、今後も原発を建設するであろう。

4.核抑止力としての原発
 日本では原子力は平和利用の原発しかあり得ないと原子力関係者は無邪気に思っているが、政治家達は原子力の兵器への利用を忘れたわけではない。実際、1964年東京オリンピックの開催中の中国初の核実験直後に、佐藤栄作首相が水面下で米国に日本の核武装論を説き、それを取り下げる代わりに米国の核の傘を保証させたといわれる。福島の事故後、反原発の声が大きくなったときにも、政治家の間で核抑止力のために原発の稼働を続け、潜在的な核兵器開発の技術を維持すべきであるという意見があった。
 しかし、原発は核兵器そのものではないのだから、核兵器を作る時には、そのためにある程度の時間が必要になり、そう考えるとわざわざ原発を維持しなくても、最先端科学の基盤技術があれば、必要になったときに開発するとしても余り差はないであろう。したがって核抑止力のために原発を維持することは不経済である。

5.核抑止力としての今後の原子力政策
 政治家達がこのことに気がつけば、リスクが大きい原発を維持する動機はなくなる。核抑止力を持ちたければ核兵器開発に直接結びつく研究開発に予算を付ける方が良いにきまっているから、今後本音の議論がなされるような雰囲気になれば、政府も原発推進にこだわらなくなるかも知れない。
 佐藤栄作の時代には日本の核武装に反対した米国も同盟国の防衛費の増強を求めるトランプ大統領の時代には日本の核兵器開発を容認するかもしれない。容認しなくても増額した防衛費の一部を大学等の研究機関に大盤振る舞いして核抑止力の維持に有用な研究を支援するということは十分あり得ることである。既に防衛予算による大学への補助金の増額は始まっている。一方で文科省が大学に出す予算は財務省によって減額され続けているので、どういう事態が起こるかは火を見るより明らかである。

 6.今後の原子力の在り方
 上記の検討に基づき、今後の原子力の在り方について、結論だけ述べると、
・ 既存の原発はなるべく早く廃炉にする。40年を過ぎた原発の運転延長は認めない。
・ 建設中ないし計画中の原発は、取りあえず建設・計画を中止する。
・ プルトニウムを利用する燃料サイクルは中止し、これまでに蓄積したプルトニウムと使用済み燃料の処分法の研究は続ける。
・ 大学・研究機関では、革新的に安全な原子炉の開発研究や、核兵器に利用されにくい燃料サイクルの研究開発を行う。
・ 2030年頃に研究開発の進捗状況を世論の判断材料として示し、その時点で改めて開発された革新的な原発を利用するかどうかを判断する。
 これが電力会社の本音にもそい、国民の不安に応えるべく原子力人材を確保して、政府を含めた原子力関係者が果たすべき責任である。

「もんじゅ」廃炉の先は?2016年09月28日 17:12

 政府は「もんじゅ」を廃炉するが、核燃料サイクルは維持し、今後の高速炉開発は経産省主導で行うことを決めたようである。これまでも「もんじゅ」は動いてなかったし、これから動かすにも時間も金もかかることを考えると、「廃炉」という言葉を使うかどうかは別として実質的に「もんじゅ」は死んでいるも同然だから、実態として原子力政策は何も変わらず、今回起こったことは文科省が経産省に主導権を奪われただけのことである。
 今回の決定で「もんじゅ」が廃炉になれば核燃料サイクルが破綻するという意見もある。しかし、核燃料サイクルのもうひとつの要である六ヶ所村の再処理工場の方も、「もんじゅ」よりはるかに巨額の金をかけても、トラブル続きで工期の延長を繰り返しており、まだ完成していない。こんな状態だから高速炉開発が遅れたり追加予算が必要になったりする程度では燃料サイクルの政策を変えるほどのことではないというのが政府の認識かもしれない。
 またロードマップ的に、実験炉「常陽」、原型炉「もんじゅ」、その次の実証炉と段階を踏むのだから、「もんじゅ」なしに「常陽」で実験しても実証炉の設計の役に立たないとか、「もんじゅ」の段階で失敗したのだから実証炉には行けないのだとかいう意見もあるが、実は原子力の関係者がよく使う言葉である「ロードマップ」なるものの実態はいい加減なものである。「もんじゅ」を設計するときに「常陽」の経験を継承していたとは思えない。「もんじゅ」は「常陽」とは別々にメーカーが設計して、設計ミスを犯している。本来なら旧動燃の技術者が設計してメーカーに図面を渡して製作するべきで、そうすれば技術は発注側で継承されていくが、旧動燃は仕様書だけ書いて、実際の設計・製作はメーカーに丸投げし、その図面のチェックもする能力がなかったといわざるを得ない。でなければ「もんじゅ」であのようなおそまつな設計ミスをするはずがない。つまり「もんじゅ」があろうとなかろうと次は実証炉を作るというのが彼らの体質であるから、「もんじゅ」が廃炉になっても路線が変わらないというのは彼ら的には不思議なことではないのである。
 いっぽう、核燃料サイクルを止めれば貯まり続ける使用済み燃料を原発の敷地から六ヶ所村へ運び出せなくなるし、貯まっているプルトニウムの処分にも困る。現在の原発を運転するためにも核燃料サイクルを止めるとはいえないのである。いやむしろこれこそが本音で、電力会社としては原発の新規建設では採算が取れないから、現在の軽水炉の寿命が尽きるまでできるだけ長く既存の原発を動かして、その後は原子力から撤退する気であるが、それまでは政府には核燃料サイクルを止めないと言っておいてほしいというだけのことかもしれない。
 こんな官庁の主導権争いや電力会社の金勘定からその場しのぎの方針を決めていいのであろうか。もっと根本的に原子力について方針を検討すべきであろう。

 まず、今後も原子力を発電に使うかどうかが問題である。これは国民の判断によるべきで、専門家は国民の判断に必要なデータを示す必要がある。
 次ぎに原発をやめるにせよ続けるにせよ、既に貯まった使用済み燃料をどう処理処分するかの問題がある。
 
 今後も原発を使う場合には、燃料サイクルをウラン・プルトニウムではなく、トリウムサイクルにすべきである。トリウムは使用済み燃料中に現在のウラン燃料の場合のようにプルトニウムやマイナーアクチノイドなどの長寿命の放射性物質が生じにくいので使用済み燃料の処分問題が格段に楽になる。なお、トリウムはそのままでは核分裂しないが、中性子を吸収することでウラン233という、現在原発で使われている燃料のウラン235より軽い核分裂性のウランができるので、これを利用する。これを作るとき同時にウラン232も混在してできるがこれは崩壊して行く過程で強いガンマ線を出すので、トリウムからできるウランは、放射線の遮蔽がなされている発電施設では取り扱えても、核兵器の材料としてはプルトニウムに比べて取り扱いにくく不向きである。既存の原発の寿命が来たら原子力発電をやめるのであれば、トリウムサイクルの開発をする必要はないが、数十年以上原子力発電を続けるのであればトリウムサイクルを開発する時間はある。
 高速炉の研究をする場合には、フランスの高速炉ASTRIDの開発に協力することに反対ではないが、これはあくまで国際共同研究であって、高速炉を作るのであれば日本独自の開発計画をもつ必要がある。中断しているFACTを再開するのも良いと思うが、より積極的にはトリウム炉の研究開発を採り入れるべきである。
 
 使用済み燃料の処理処分については、これまで「もんじゅ」をそのために使うということにしてきたが、それは「もんじゅ」を廃炉にしないための方便のようなこじつけで、「もんじゅ」である必要はない。今回の決定では、そのためには別の高速炉で研究をするというような説明がなされているが、語るに落ちたという感じである。
 そもそも使用済み燃料の処理処分はまだ基礎研究の段階である。その研究用装置としては、臨界状態で動かす必要がある原子炉よりも、未臨界から臨界まで様々な条件で試験ができる加速器駆動システム(ADS)の方が有利である。処理処分の実用機ということではなく、そのような試験研究装置として、「もんじゅ」の敷地と建物等を可能な限り利用して、ADSの建設をすることをすすめるべきである。
 ADSの予備的実験は京都大学原子炉実験所でなされており、より本格的な要素技術開発研究が日本原子力研究開発機構でJ-PARCを利用して行われているので、「もんじゅ」関係の研究者とともにこれらの研究者を結集して本格的なシステムの実現を図ることはできるであろう。 
 地元は「もんじゅ」が廃炉になることに不満だといわれるが、いつまた事故を起こすかもしれない「もんじゅ」にこだわっているのではなく、研究拠点の存続を求めているのだと察する。そのためにも今後原子力発電を続けるにせよやめるにせよ必要な試験研究用装置である加速器駆動システム(ADS)を敦賀に建設するのが、地元の期待に応える最も良い方法であろう。

「もんじゅ」の運営主体2016年05月05日 16:44

 文部科学省の「もんじゅ」の在り方に関する検討会が「新たな運営主体が備えるべき要件」の骨子案を示した。その要点は以下の4点である。

1. 研究開発段階炉の特性を踏まえた、ナトリウム冷却高速炉にふさわしい保全プログラムの遂行能力を有すること
2. 発電プラントとしての保守管理・品質保証のための体制・能力を有するとともに適切な人材育成ができること
3. 保守管理・品質保証の信頼性の向上に資する情報の収集・活用能力及びナトリウム冷却高速炉に特有な技術力等を有すること
4. 社会の関心・要請を適切に運営に反映できる、強力なガバナンスを有すること

 この「骨子案」は原子力規制委員会の指摘に応えているようではあるが、「もんじゅ」の技術面での根本的問題に向き合っていない。

 「もんじゅ」が運転停止に到ったのは運転開始後、暫くしていわゆるナトリウム漏れ事件が起こり、その14年後にやっと運転再開にこぎ着けたものの、その直後に炉内中継装置の事故で再び運転停止し今に到っている。このことを最初に問題としなければならない。
 さらにその間、保安検査での失態が続いて原子力規制委員会から勧告が突きつけられたということになるが、規制委員会になってからの失態はいわばソフトの問題である。ナトリウム漏れ事件に関しては事故後の隠蔽体質も問題になったが、それを別に考えると、ハードの問題としてはナトリウム漏れ事故と炉内中継装置の事故である。この2件はいずれも初期の設計段階の稚拙な設計ミスであって、現在の所員の能力の問題ではない。このことに触れていない今回の「骨子案」はそもそもの問題点の解決になっていない。
 つまり「もんじゅ」は欠陥商品であるおそれがある。それは設計当時の日本の技術力の限界であったというような高級な話ではなく、二つの事故の原因は普通の経験ある機械工学の専門家であれば犯さないような素人的な設計ミスである。したがって他にもそのような設計ミスがあるのではないかという心配がある。製品に問題が無いとして保全だけの能力を求めているのは危険である。

 燃料サイクルや高速炉の進め方に関しては現在の「もんじゅ」にこだわらず、新しい考え方をすべきであると、個人的には思うが、かりに「もんじゅ」の運転を目指すのであれば、この「骨子案」の前段階として、まず以下のように進めるべきである。

1. 最初から設計し直すような気持ちを持って、すべての設計図を細部にわたり問題が無いかどうか点検する。そのうえで、設計図と現実の部品等を照合して、設計図通りになっているかどうかを点検する。分解点検も必要となるので、核燃料とナトリウムは作業中「もんじゅ」から撤去保管しておく。旧動燃ではメーカーへの丸投げ体質があったと言われているが、この作業を通じて設計の全てを自分たちのものとする。
2. その作業により現在の基準では適切でない部分が見つかれば改善する。
3. これらの経験を踏まえて適切な保守管理基準と体制を作る。

 さしあたり核燃料とナトリウムを「もんじゅ」本体から撤去することで、原子力規制委員会が求める運営主体の当面の能力として、現在の「もんじゅ」関係者が主になった組織でも資格ありとされる可能性はある。
 ただし、個人的に「もんじゅ」関係者以外の原子力機構の職員に以上の考えを述べてみると「彼らにそこまで徹底してやる能力も気力も無い」などと言われる。
 もしそうなら原子力機構全体として「もんじゅ」のかわりに「もんじゅ」の敷地と施設を可能なかぎり利用する新しい研究開発計画を立案・推進すべきである。

 その内容としては、ナトリウム冷却型の高速炉の研究開発は「常陽」を使って基礎実験を行い、設計研究は中断しているFaCTの再開で行い、国際的な共同研究としてはASTRIDで行うことにする一方、「もんじゅ」の現在のミッションである長寿命の放射性廃棄物の減容低減の研究開発は、「もんじゅ」の敷地と設備を可能な限り利用しつつ、すでに基礎研究が始められている加速器駆動システム(ADS)の試験機を建設して開発研究を推進すべきであると考える。

もんじゅ検討会への期待2015年11月18日 17:53

原子力規制委員会は、平成27年11月13日付けで、文部科学大臣に対し、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(以下「機構」という)が設置する高速増殖原型炉もんじゅ(以下「もんじゅ」という)に関して以下に記す事項について検討し、おおむね半年を目途として、これらについて講ずる措置の内容を示すよう勧告をおこなった。

一 機構に代わってもんじゅの出力運転を安全に行う能力を有すると認められる者を具体的に特定すること。
二 もんじゅの出力運転を安全に行う能力を有する者を具体的に特定することが困難であるのならば、もんじゅが有する安全上のリスクを明確に減少させるよう、もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直すこと。

これを受けて、馳浩文部科学大臣は12月半ばにも検討会を開催し、来年の夏までには結論を出したいという見解を述べている。

そこで検討会に期待する私見を以下に述べる。

上記の一に関して、もんじゅに関わる職員は機構以外にもんじゅを運転できる者はないと自負しており、機構の児玉理事長も機構としてもんじゅに対する責務を果たしていくことを表明している。おそらく原子力規制委員会も多くの原子力関係者ももんじゅを運転するとすれば機構以外にはできるところはないと考えていると思われる。つまり、規制委員会も機構も一が不可能であるという点では一致しているであろう。規制委員会はそれに対する助け船として、もんじゅの在り方を抜本的に見直すという選択を勧めていると考えられる。
一の検討にあたって、これまでもんじゅの設置者は旧動燃から始まり、核燃料サイクル機構に看板を書き換え、さらに原研と統合して現在の機構にと看板が換わったが、事態は改善されなかった背景も考慮してか、看板の書き換えでは済まないと規制委員長は述べている。したがって、今後もんじゅ部門を独立させてもんじゅ発電所としたり、日本原電に統合したりするのではこれまで同様の看板の書き換えということになり受け入れられないであろう。そのような状況で、ゼロから機構に代わる組織探しの検討を行えば半年かけても結論が出ないかも知れない。そのうちに参議院選挙が近づき、政治的な配慮に巻き込まれ、検討会での純粋な科学技術的な議論が歪められるおそれが出てくる。

したがって検討会では、まず一については困難であることを確認し、二について検討を急ぐべきである。

上記の二に記されている、もんじゅの在り方を抜本的に見直すということに関しては、もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を問われているのであり、高速増殖炉の研究開発や核燃料サイクルの政策を問われているのではない。原子力規制委員会におけるもんじゅの議論に関して、林幹雄経済産業相が6日の閣議後の記者会見で「政策に直接影響を及ぼすものではない。計画通り核燃料サイクルは推進していく」と述べているのは勧告に対するそうした認識を示していると考えられる。
高速増殖炉の研究開発に関しては、福島の事故で中断したとはいえ、高速増殖炉サイクル実用化研究開発(英語名FaCT)というプロジェクトを経産省・文科省・電気事業者・メーカー・原子力機構の五者協議会のもとで進めており、さらに昨年5月安倍首相訪仏時に、フランスの第4世代ナトリウム冷却高速炉実証炉(ASTRID)計画に参加すべく協力に関する取決めに署名している。
これらの研究開発にとって、もんじゅの成果を利用することが期待されてはいるが、必ずしも今後もんじゅを再稼働することが不可欠ではなく、これまでの経験をまとめて報告することで、研究開発に貢献できるであろう。また高速炉の基礎研究のためには、引き続き機構の高速炉「常陽」を利用することができる。
一方、昨年4月に閣議決定されたエネルギー基本計画において、もんじゅに関しては今後廃棄物の減容・有害度低減等の研究を行う拠点とし、これまでの研究の成果のとりまとめに入ることが期待されている。これはもんじゅの高速増殖炉研究の使命を終えることを認めたうえで、もんじゅを残すために廃棄物の減容等の課題を付け足したものと考えられるが、付け足された課題についてはもんじゅを使わねばできないということではない。

したがって検討会ではまず「もんじゅから燃料とナトリウムを抜き去り、今後(廃炉を視野に入れて)、もんじゅの運転再開はしないこととして運転中止し、安全に管理する。」ことを早急に決定し、その上で廃棄物の減容等の課題のための方策について時間をかけて検討すべきである。
燃料とナトリウムが無い状態で再稼働しないということであれば、その安全管理に関して機構に能力があることを規制委員会も認めると考える。

その後のこととして、もんじゅの敷地は活断層の有無などに関して原子力施設がおけないという判断ではないことから、もんじゅの敷地や建物を利用できる限り利用して、廃棄物の減容等の新しい試験研究施設を設置することにより、エネルギー基本計画との整合性をはかり、地元の理解を得るようにする。
なお、新しい施設として例えば、加速器駆動システム、プルトニウム・ウラン混合燃料(MOX)の代わりにプルトニウム・トリウム混合燃料にする、冷却剤にナトリウムを使う代わりに鉛・ビスマスを使う、などの基礎研究開発のための試験研究施設が考えられる。これらの研究の一部は既に機構においてJPARCを利用するなどして要素設計研究が始められていることでもあり、旧原研と旧核燃料サイクル機構との統合を象徴する事業として、機構の組織改革にも資する計画となるであろう。

今後の原子力を考える2014年09月02日 09:29

(いま考えることの重要性)
 核反応に伴って放出されるエネルギー、いわゆる原子力は、これまで主として兵器および発電に使われてきている。北朝鮮などにおける核兵器開発の動きと東京電力福島第一原子力発電所の事故により、今後の原子力政策がどうあるべきかが、軍事利用の面でもいわゆる平和利用の面でも、これまでになく大きな課題となって来ている。
 核兵器に関しては、太平洋戦争末期の広島と長崎における原爆投下による被爆と、ビキニ水爆実験による漁船員の被災を経験した日本人の間では核兵器をなくしたいという気持ちが強い。しかし世界にはいわゆる核大国の他にも核兵器を保有する国もしくは保有したい国々がある。
 一方、発電に関しては、日本も平和利用と称して推進してきたが、東京電力福島第一原子力発電所の事故で甚大な被害が生じたことで、今後のあり方が問われている。しかし世界的には特に新興国において今後も原発を建設したいという国もあり、これに応えて日本でも国内の原発の再稼働だけではなく、原発の輸出を図ろうとしている。
 今こそ、無定見なその場かぎり対応を重ねるのではなく、長期的な視点でこれからの原子力がどうあるべきかを真摯に考える時である。

(原子力の特徴)
 原子力が利用される以前から人類が利用している化学反応に伴うエネルギーと比較してみると、原子力は極めて少量の物質で莫大なエネルギーを発生するという特徴と、反応の際に放射線を発生し、さらに放射線を放出する能力(放射能)がある物質が生じるという特徴がある。
 第一の特徴である少量の物質で大量のエネルギーを作ることができるということは、兵器に利用する場合、通常の火薬による爆弾よりはるかに大量の殺戮が可能な爆弾を作ることができることを意味する。大量破壊兵器といわれる所以である。発電の場合も少量の燃料を備蓄することで長期間の発電が可能になるので、日本のような石油がない国では準国産エネルギーと考えられ、エネルギー自給率が高まるともいわれる。
 第二の特徴である放射線に関しては、微量の自然放射線による被曝は人類が原子力の利用を始める以前からあったことであるが、大量の放射線被曝が即死をもたらし、少量であっても発がんのリスクが高くなる問題がある。このことを、おびただしい実例で身を以て示したのは広島・長崎の犠牲者たちである。核兵器が使用された時の放射線影響と対策はそれ以前の兵器にはない異質のものである。また原発からの放射線遮蔽と放射性物質の閉じ込めも他の発電所にない技術を必要とする。

(利便性と危険性ならびに制御可能性)
 アルフレッド・ノーベルは、取扱が危険なニトログリセリンの改良研究を行い、途中で事故を起こしつつも、より安全な爆発物であるダイナマイトを発明して巨万の富を得ることに成功した。その後、死の商人と言われることを気にしたのか、遺産をノーベル賞の基金とした。しかしダイナマイトは戦争で使われるだけでなく、各種の工事にも使われる。工事現場でも事故が起こるリスクはある。ダイナマイトは典型的な例であるが、全ての発明品には同様な利便性と危険性がある。原子力はその二面性が極端に大きなものである。
 福島の事故を受けて、原子力は人間にはコントロールできないものであり、神ならぬ人類が扱うべきものではないとの主張がなされ、さらには科学一般についても否定するような傾向が見られた。しかし人類は道具を使うことで他の生き物とは異なる文明を発展させたわけで、科学や技術を否定することと人類の存在とは相容れない。そこで人類の存在が悪であるという考え方も出てくるかも知れないが、神を持ち出しては、議論が宗教論争のようなもの、あるいは魔女狩りのようなものになる。ここではそのような形而上学的議論より具体的な場合について考えてみる。
 高速道路を走っている自動車の場合、運転手はハンドルやブレーキで方向や速度を制御できるが、ひとたびガードレールを飛び出して谷底に落ち始めるとニュートンの法則に従い、重力によって放物線を描いて落下するだけで、運転手がハンドルやブレーキで落下中の軌道を制御することはできない。そういう意味で人間は自然をコントロールできない。
 原子炉の場合も、一個の中性子がウランに衝突するとき、必ず核分裂反応が起こるわけではなく、起こる確率(いわゆる反応の断面積)が決まっていて、その確率を人間が変えることはできない。ここでも人間は自然をコントロールできない。しかし、原子炉の中にある中性子の数は制御棒で制御できるので、原子炉内で起こる核分裂の数を制御することはできる。つまり制御棒が正常に動作する限り、原子炉の出力を制御することや運転を停止することはできるのである。自動車の場合も原子炉の場合も人間がコントロールできるところとできないところがある。
 自動車の場合は、自動車事故の死者は非常に多いにも関わらず、運転手は事故のリスクを承知の上で運転しており、また自家用車の場合には事故の影響が及ぶ範囲も限られていると思われているから、反自動車運動は起こらない。しかし、原発は事故が起これば広範囲に影響が及び、放射線という日常的には実感できないリスクが関わるので忌避したくなる。この心情に加えて、世界の最新の原子炉に比べて安全性に劣る原子炉がいまだに使われており、電力会社のトップは腐敗していて信用ができないとあっては、反原発運動が起こるのは当然である。

(原則と現実)
 核分裂反応は自然科学現象であり、その発見や知識をなかったことにはできないし、それを理解しておくことは、この宇宙で、地球で人類が生存するために有益である。問題はそれを応用する技術として、原爆や原発を発明した時に、それを実際に使うかどうかの判断であった。しかし、原子力は政治的理由によって早すぎる使用がなされた。
 原爆は、本来ドイツに対して使用することを目指して開発された。しかし、開発完了時に既にドイツが降伏していたため、効果を試したい米軍が日本の降伏前に急いで広島・長崎でそれぞれウラン型・プルトニウム型を投下した。
 原発の場合には、発電炉として最適のものを開発してから実用化されたのではなく、発電でソ連に先を越された米国が急いで潜水艦用の原子炉を改造して発電用軽水炉を製作し、軽水炉が主流になったという現実がある。
 日本では最初の原子力委員会で湯川秀樹は基礎研究を行った後に実用化を目指すべきとしたが、委員長の正力松太郎は早期に外国製の商業炉を輸入する路線を主張した。湯川は、この最初の委員会直後に、湯川の委員就任を支持した周辺に対して、君たちが言っていたのと話が違うから自分は委員を辞めると言いだし、森一久らがなだめたというが、結局1年後に体調不良を理由に委員を辞任する。このままでは湯川がつぶれるからと心配した京都の支援者達がやめさせたという説もある。
 人類が数十年にわたって核兵器を保有し原発を使用してきた今となっては、無かった状態には戻せない。しかし、この状況下でもなお、私は原子力の利用に関して、原則的には次の3点が基本であると考える。
1.大量破壊兵器である核兵器は廃絶すべきである。
2.事故のリスクが大きい現在の原発は廃止すべきである。
3.安全原子力システムと使用済燃料処分技術の基礎研究を行うべきである。
 とはいえ、この原則を直ちに実行実現することは容易ではない現実がある。その根本的な原因は、人類史の現在の発展段階にある。以下に上記3点のそれぞれについてコメントする。

(核兵器の廃絶)
 ヨーロッパに始まり、その後は世界を舞台とした、近代国家による幾度かの大規模な戦争、特に非戦闘員を巻き込む世界大戦は、産業化された総力戦となり、甚大な被害を引き起こした。その反省から非人道的な兵器の使用を禁止する国際法や、国際連盟や国際連合といった平和のための組織作りがなされた。第二次大戦後、ヨーロッパでは永年の宿敵であったドイツとフランスが和解し、ヨーロッパ連合(EU)へと進化している。
 しかし、世界的にみれば、各国は依然として近代国家の枠組みで動いている。近代国家は、国境を定め、国民を定義する。その国是としては、基本的に富国強兵を原則としている。富国強兵は、強い国と弱い国、富める国と貧しい国という格差がないと原理的に成り立たない概念である。
 兵器に関しては、生物化学兵器は非人道的であるとして禁止したものの、最大の大量破壊兵器である核兵器については、これを持つ大国は保有し続け、持たない国が持つ国になることを妨げるという状態が生じている。このように現在の核不拡散条約(NPT)が不平等なのは、近代国家の原理が働いているからである。したがって、近代国家体制が続く限り、もし核兵器がなくなる時があるとすれば、それは核兵器以上に強力な大量破壊兵器が発明された時である。
 湯川秀樹はこの現実を顧みて、人類は近代国家体制の段階から次の段階に進むべきだと考えたのであろう、世界連邦を目指す運動を始めた。実際、人類社会の長い歴史を考えると、ホモサピエンスがアフリカから出て世界中に広がって行った数万年の歴史と比べても、近代国家の時代はたかだか200年程度のものであり、ずっと昔から続いて来たものではない。これが人類の発明した最終的な優れた仕組みともいえないから、やがて次の段階、湯川にとっては世界連邦、に移行するであろうと考えたのも無理はない。
 しかし、湯川の提案はおそらく100年早かった。世界連邦を作ることは当時としては非現実的な夢物語であり、今もなお、そうであろう。人、もの、金(マネー)が国境を簡単に越えてグローバルに動き回る時代になり、先進地域であるヨーロッパで試みられているEUは人類史の次の段階を目指すものであるかもしれないが、未だ完全に成功しているとはいえず、試行錯誤段階である。まして他の、特に中国などのいわゆる新興国といわれる国々は近代国家としての大国を目指して、まさしく富国強兵路線を突き進んでいる。アメリカもロシアも卒業できていない。日本は悲惨な敗戦を経験して、二度と戦争をしないという決心をしたが、世界の現実と合わず悩んでいる。
 大坂夏の陣で、徳川方が行った町民に対する殺人、強姦、略奪、暴行、放火などは凄まじく、敵の将兵の首を取ってくれば褒美を出すと言ったために町民の首を取って敵の将兵の首と偽る、いわゆるニセ首が横行した。初めて大規模な城下町を戦場とし、非戦闘員を巻き込んだ戦争の酷さに恐懼した武士達は、家康に信服していたわけではないが、もはや戦争はやめようと考え、その効果は200年間続いた。ヨーロッパでは第一次大戦で初めて本格的な非戦闘員を巻き込む悲惨な戦争を経験したが、戦後処理を誤ったために30年足らずで第二次大戦が起こった。
 日本における太平洋戦争の悲惨な経験の効果はいつまで続くであろうか。やがて戦争を知る世代がいなくなった時に、日本は世界の現状に合わせてもう一度戦争を経験しなければならないのであろうか。戦争経験者には現在の日本の政治と原子力の状況を懸念している人が多い。しかし絶望すべきではない。
 理想がすぐには実現しそうにない現状でできることは、いずれ多くの国が、近代国家の行き詰まり、すなわち全ての国が平和裡に富国強兵的近代国家にはなり得ないという原理的矛盾、を認識するであろうと希望を持って、それまでは理想を掲げつつも現実的に一歩ずつ前進することであろう。具体的には、不完全な組織であっても現在ある国連やIAEAなどの国際機関をあるべき方向に持っていく努力をし、国際紛争を関係国による戦争によって解決するのではなく、国連の警察力を活用して解決するという、既に原則的には合意されている仕組みの実現に近づける努力をすることがまず求められる。
 核兵器に関しては、少しでも大国の核兵器が縮減されるような交渉を進め、世界平和と核不拡散のシステムの整備に合わせて、段階的に全世界の核兵器の廃絶へと進めるしかない。このためには、まず不平等なNPTをより平等なものにすることによって、核廃絶に対する核兵器を持たない国の理解を得る努力が必要である。
 この際に、日本は米国の核の傘のもとにいることは明らかなので、特に核兵器保有量が多いアメリカとロシアに核兵器廃絶を求める姿勢を示さない限り、日本が核不拡散の訴えをしても、核兵器を持たない国に理解されることはないであろう。

(原発の廃止)
 もともと、原子炉の実用化は核兵器用のプルトニウムを生産することから始まった。しかし米国はソ連との軍拡競争を進めるにあたり、米国への支持を集め、反核運動を沈静化するために、アイゼンハワー大統領が国連演説(Atoms for Peace)を行い、CIAは日本において読売新聞社の正力松太郎を通じて、大々的な原子力平和利用のキャンペーンを行った。最近公表された米国側の文書によると、当時米国では、この作戦は成功し日本人の反核感情は収まったと評価されていたようである。水爆実験による第五福竜丸以外の多くの漁船員の被曝実態が封印されたことも明らかになっている。
 日本が原子力の平和利用に進んだのは、このような米国側の動機だけではなく、日本の政治家たちの側にも、核兵器開発が可能な原子力技術を確保したいという隠れた動機があったからだと思われる。こうした話は日本だけではなく原子力反対の国と思われているドイツでも、近年ミュンヘンに高濃縮燃料を使う新しい基礎科学研究用の原子炉が建設できた裏には、研究者たちが保守的な地元の政治家に「高濃縮燃料を取り扱える技術を持つことは国防上重要である」と囁いた結果予算が獲得できたからだといわれている。
 なお、当初から高速増殖炉を建設する路線を採用したことも、ウランがない日本で資源を有効に使うという平和目的の理由だけではなく、使用済燃料の再処理能力とプルトニウム生産能力を持つことが核兵器保有能力につながるという政治家の思惑と結びついていたためだと思われる。早期に再処理路線を採用していたために、後の核不拡散の議論の際に、核大国以外で日本は唯一の例外国として再処理が認められた。近代国家体制にあって、これが持つ意味も重要である。
 原発導入に当たって、東京電力にとっての不幸は、地震が少ない米国東部向けに設計されていたGEの沸騰水型軽水炉を、地震国である日本に設置することに対する配慮が全くなされないままに、導入したことである。関西電力などの加圧水型軽水炉は、少しはましであるものの、これも全電源喪失対策が充分であるとはいえないものが導入された。1960年日本原子力産業会議は事故の規模を試算し、事故時の賠償が国家予算に匹敵するほど膨大になるとの試算を得ていた。電力側は原発の導入を躊躇したが、政府がある程度以上の大事故については国が賠償責任を持つということを決めて、政治主導で建設が進められた。 現在は、完全とはいえないものの、長期の全電源喪失に耐えられるような、より安全な軽水炉の開発はなされてきているが、古いものを最新型に置き換えるということはなされていない。電力会社が安全対策に金をかけようとしなかったのは、単に経済優先という理由だけではなく、政治家が国家方針として進めた政策によるところも大きい。
 現時点の技術でも実現可能な世界最高水準の安全基準を求めた場合、日本に現在ある原発は全て基準を満たせないであろう。誰が言い始めたのか、日本の原子力規制委員会の基準が世界で最も厳しいなどとまことしやかな説を振りまいて、再稼働を進めるのは危険である。再び今回の福島の事故と同様な事故が発生するリスクは高い。
 原発を今後も利用するのであれば、本来は、現在の軽水炉よりもっと原理的に安全な新しい原子炉を開発してから、利用すべきである。それが待てないのであれば、せめて現在の原発は全て廃止して、暫定的に、長期の全電源喪失に耐える最新式の軽水炉に置き換えるべきであろう。既存の原発の再稼働か反原発かだけの選択は危険である。
 しかし政府は、将来はなるべく原子力に頼らないようにすると言いつつ、今は再稼働の実績を早く作ろうとしているように見えるので、いずれいくつかの原発が再稼働されるであろう。また、現在の世論調査の結果でも、2030年代に原発を廃止するという意見が多いものの、ある程度の原発は必要との意見もあるのが現実である。
 そこで、現実的対応としては、安全基準を満しつつ比較的新しい少数の原発の再稼働を認めるとしても、なるべく再稼働よりは最新式のものに置き換えることを進め、現在の世論分布を参考にして2030年に10基程度が稼働している状態をめざす。その上で、その時点の世論動向を考慮して、その後の選択をするといった方針が考えられる。

(安全原子力システムと使用済燃料処分の基礎研究)
 安全神話と、より安全な原子炉の存在は矛盾するので、これまでは、より安全な原子炉の研究には予算が出にくかった。しかし福島の事故で、安全神話の破綻が明らかになったので、より安全にするための改修が求められており、それによって新しい安全基準を満たすことができれば再稼働を認めるというのが政府の方針である。一方、既存の原発を改修した程度では事故が再発するリスクが高いので、反原発派はこのまま再稼働せず全ての原発を廃炉にせよという。しかし、原発を全廃まではしなくてよいという意見も根強く存在する。
 少数意見も無視しないのが民主主義であるなら、先に述べたように、より安全な原発をある程度利用しつつ議論を続け、今後の安全研究の成果も参照しつつ、全廃するか利用を続けるかを、例えば10年ごとに世論動向に沿って、判断するというのが現実的であろう。さらに現在の軽水炉の改良ではなく、より革新的な安全原子力システムの基礎研究をすべきである。原子炉開発史の初めには、様々なアイデアがあり試作もなされていた。現在の軽水炉が採用されたのはそれらが十分に比較検討された結果ではないことは既に述べた。
 また、最近でも世界的には、高温ガス炉、トリウム溶融塩炉、加速器駆動未臨界炉、小型のカプセル型炉など、次世代炉としていくつかの方式が提案されており、開発研究がなされてもいる。急いで実用に供すればまた欠陥があるまま使うことになるので、充分に基礎研究を行ってから実用化すべきであるが、これらの研究を続けることは科学者・技術者として当然行うべきことではないかと考える。自主、民主、公開の原則の下で行われるその研究成果を見た上で、電力源として原発を採用するかしないかは、市民が判断するという手順で行うべきである。しかし、その前に電力会社が原発は実は採算がとれないことに気がついて撤退するかもしれない。
 今後原発を利用しないとしても、安全原子力システムの研究とともに、不可欠なのは使用済燃料の処分方法の研究である。40年にわたる原発利用の結果、かなりの使用済燃料が既に蓄積されている。原発の利用を開始した時点では海洋の深いところに埋めるという案もあったが、国際的に海洋投棄が禁止されてから、トイレなきマンションといわれる状態が続いている。直接処分が経済的であるとされるが、人類の歴史と同じ程度の長期間にわたって安全に埋設することが可能であるとは思われない。学術会議はより良い方法が開発されたらそれを利用できるように、取り出し可能な形で地下に貯蔵すべきであると提言している。これは今の段階で現実的な案であると思われる。その上で、座して待っていてもよい処分方法がやってくる訳ではないので、よりよい処分方法についての基礎研究を早急に開始すべきである。
 長寿命の放射性物質の原子核を変換して短寿命化できれば何万年も先まで心配しなくてよくなる。埋設する場合の敷地面積も少なくできる。このため、核変換の経済性の点から高速中性子炉を利用する案や、安全性の点から加速器駆動システム(ADS)を利用する案が提案されている。日本では高速炉の案は「もんじゅ」の延命策として提案されているが、「もんじゅ」は欠陥製品なので、もし高速炉を利用するなら新設した方がよい。ADSはヨーロッパや中国では研究が進んでいるが、日本では長らく研究が軽視され、京都大学原子炉実験所で小規模な研究が始まっているとはいえ、肝心の日本最大の研究機関である日本原子力研究開発機構(JAEA)では「もんじゅ」優先のためか、これまで後回しになっていた。福島の事故後ようやくJAEAでも少しADSの研究費が認められるようになった。今後の研究の発展に期待したい。もちろん、これもすぐに実用化段階に進めるのではなく、十分に基礎研究を行ってから、市民の同意を得て実用化すべきである。
 一方、今後も原子力を利用するのであれば、ウランではなく原料としてトリウムを利用することを考えるべきである。トリウムを利用する燃料サイクルは使用済燃料中に長寿命の放射性物質が生成されにくいので、使用済燃料処分が容易になる。またトリウムサイクルでは核分裂性のウラン233を得る過程でウラン232が生じこの崩壊過程で強いガンマ線を出す物質が伴うので取り扱いにくく、また使用済燃料中にプルトニウムができにくい。これらの理由で現在原発に利用されているウラン・プルトニウムサイクルにくらべて核兵器製造には向かない燃料サイクルであるという利点もある。トリウムの多いインドでは将来的にはトリウムサイクルを採用すべく段階的に開発を進めている。欧米でもブルックヘブンの高橋博が提唱しノーベル賞受賞者であるルビアが推進しているトリウムサイクルによる加速器駆動未臨界炉の研究が進んでいる。日本には特にトリウムが多いわけではないが、世界的に偏在していないトリウムは資源確保面でもウランより有利であろう。トリウム溶融塩炉の試運転はかつて原子炉開発の初期に成功しているとはいえ、実用化には、まだ多くの解決すべき技術的課題があると考えられるので、基礎研究を着実に進めていくべきである。
 なお、トリウムサイクルの、特に溶融塩炉については古川和男が亡くなるまで主張し続けたが、古川はまず現在の政策を非難することから始めるので、原子力ムラでは異端視されていた。しかし、当初から原子力政策の中心にいた伊原義徳は、最近出版されたオーラルヒストリー「日本原子力政策史」のなかで、トリウムサイクルは研究を促進すべきものとして正当に評価している。
 単なるゴミ処理作業ではなく、こうした基礎研究は目的が重要であるだけではなく、それ自身学術的にも多くの課題解決を伴うものであるから、研究者にとっても魅力あるものとなる。基礎研究は、国益を越えて国際協力が可能なものであり、人類史的にも意義あると考える。
 また、そのような重要で魅力ある研究に取り組むことは今後の原子力関係の人材育成にとっても有益である。これから現役の人たちが引退し、若い人材が育っていなければ、今後の原発の安全運転にとってはもちろんのこと、直ちに原発を全廃すると決めた場合でも数十年以上かかる廃炉作業が不可能になることを考えると、人材の育成は重要である。これまでの失態の責任がある政治家、行政、電力会社、学者、マスメディアを非難するのはよいが、現場の原子力の研究者や技術者をバッシングすることにより、若い人材がいなくなる事態はさけるべきである。
 
 現実対応ばかりでは道を誤る。理想を掲げるだけでは現実が打開できぬ。理想を掲げることで、多少の回り道をしても引き返せないような道に陥ることだけは避け、現実に対処して少しずつ進めていくことが肝心である。その道はおそらく一つではない。多くの人の考え方に耳を傾けながら、自主、民主、公開の原則にたって今後の原子力の道を探ることが今こそ求められている。

小保方STAP細胞事件のおかしさ2014年04月11日 18:14

 いわゆるSTAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)に関する小保方晴子氏らのネイチャー論文は学問的議論を超えて事件となっている。常識的にはこれだけずさんな論文であれば信憑性が疑われるのは当然である。しかし、小保方氏は未熟というよりむしろ常識的な人物ではないのかもしれない。常識的でない人物をどう受け止めるかは難しい。ただ、問題が指摘されてからの諸々の事態の展開は別にして、STAP細胞があるかどうかに関しては、上司の笹井芳樹氏は、刺激惹起性多能性獲得現象は実際にある現象であると述べているようである。そうだとすると小保方論文は、なぜそうなるのかという理由の解明やいろいろなケースについての十分な確認実験は出来ていないが、非常に不思議な現象なので、取りあえず紹介するという段階の第1報という位置づけなのかもしれない。通常は第1報を出す場合も、実際には十分な検証は出来ていて、ただフルペーパーとして書き上げる前にレター論文として速報するという性質のものであるが、バイオ関係は競争が激しく進歩も早いので今回のようなこともあるのかもしれない。以下に他の人が言及していないいくつかの問題点を述べる。
 ネイチャー誌に掲載されることを過度に評価することが生命系では特に多いが、ネイチャーは商業誌であり、商業誌は雑誌が売れるような論文を好むので魅力的な表現を求められる。その結果センセーショナルな反応を引き起こすことになりかねないリスクがある。権威という観点では、もう少しそれぞれの専門の学会が発行する雑誌を大事にしてほしいものである。
 実態が、単に不思議な現象が見つかったことは事実だが、まだ真相究明は出来てないということであれば、ネイチャーに論文が掲載されたというだけで大騒ぎして理研が組織を挙げて宣伝したのは行き過ぎで、静かに次のステップの研究を進めて行きたいというコメントを出すだけにとどめるべきであった。政府や理研の側に、理研の新法人化への思惑が絡んでいたとすれば論外である。
 疑惑が生じてから、バイオ系の研究者が、自分たちは問題なくやっているのに小保方氏が非常識なことをやっていただけという、小保方氏非難のコメントのみを発していることは問題である。かつて原子力関係で国内外の事故が起こったつど、日本ではあり得ないとか、小さな燃料加工会社のミスのせいで電力会社はこんなに安全に気をつけてやっているのに迷惑だという反応をしていたが、実態はその後電力会社が腐っていたことが証明される事態が起こり、とどめは福島原発事故という次第である。バイオ関係者はまず自らの学会の体質に問題が無いかを点検し反省すべきではないかと思う。特にバイオ関係の実験は共同研究とはいっても一つ一つの実験プロセスは一人で行える小規模のものであるからミスが起こりやすいと考えられる。特に活気があり発展が著しい分野では若い人の勇み足が起こりやすい。