万葉集遣新羅使麻里布考2019年12月03日 16:39

万葉集巻15には天平8年の遣新羅使の和歌が多く掲載されている。そのなかに麻里布という場所が出てくるものがある。この麻里布は岩国の麻里布というのが通説であるが、実は田布施町南部の麻郷に麻里布(現在の地名は麻里府と書く)というところがあり、こちらが万葉集にある麻里布だという説がある。二つの説を検討してみよう。

 麻里布の歌の前には安芸の長門の浦の歌がある。この長門の浦は現在の倉橋島の南側の本浦(桂浜)とされる。麻里布の歌の後には大嶋の鳴門を過ぎて二日後の歌が追作として記されている。その後に熊毛の浦での歌があり、熊毛の浦では可良の浦であさりする鶴が鳴いていることが出てくる。室津半島の西側の尾国という場所に万葉の歌碑が建っているが、可良の浦が本当にそこであるかどうかは分からない。熊毛の浦の後に佐婆の海で風にあって豊前に流されたことが出てくる。佐婆は徳山か防府辺りであろうが、佐婆の海は周防灘である。
 航路をまとめると、倉橋島から麻里布を経て熊毛の浦に至った後、佐婆の海で風にあって豊後へ流れ着くということになる。麻里布の後で周防大島を通ったのであれば、通説のように麻里布は岩国ということになる。この場合は大嶋の鳴門を過ぎた後で南下して室津半島の先端(上関)に至りこの辺りを熊毛の浦とすることと辻褄が合う。
しかし、大嶋の鳴門の歌は二日後の追作であるから、麻里布に到着して安堵した後、大嶋の鳴門の強い流れを思い出して歌ったとも考えられる。この場合は倉橋島から直接周防大島方面に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を過ぎた後に麻里布に着いたことになる。このように考えると、麻里布を岩国ではなく、田布施町麻郷の麻里府とすることが可能で、この方がわざわざ一旦倉橋島から北上して岩国に寄り道するより海路としても自然である。
とはいえこの考えでは熊毛の浦が室津(上関町)付近だとする通説に従うと、麻里布へ行った後で熊毛の浦に後戻りすることになる。通説が信じられているのは、大嶋の鳴門を過ぎた後の海路は、南下して上関に至り室津半島を回って西に行くというのが、後世の標準的な海路であったからである。したがって通説では麻里布(岩国)、大嶋、熊毛(上関)の順となっている。
 しかし、実は古代の大島の西には柳井から新庄、余田、田布施を経て南へ抜ける別の海路があった。現在はこの海路は無く室津半島と柳井は陸続きになってしまっているが、この古柳井水道あるいは唐戸水道といわれる海路は古墳時代から平安時代頃までの重要な海路であった。この付近には熊毛王の墓といわれる前方後円墳がいくつかある。熊毛王はこの海路の海運を支配することで繁栄しヤマト政権も重視していた豪族であった。東の入り口には柳井市の茶臼山古墳がある。西の出口に近い現在の平生町の中心部は海であり、出口付近にある当時は島であった平生町の神花山古墳は女王の古墳として知られている。この水道の出口付近の平生町の対岸になるのが田布施町麻郷の麻里府である。
 麻里布の浦での歌には、粟島、可太の大嶋、祝島といった島の名前が出てくる。可太の大嶋は周防大島のことであるといわれているが、粟島は分からない。古柳井水道にある島々の中に粟島と呼ばれたものがあるのであろうか。祝島は上関町西南部にある島であるから、田布施の麻里府からは南西に望むことができるが、岩国の麻里布からは望むことはできない。岩国に停泊中に祝島のことを歌うのは不自然である。
 安芸の長門の浦(倉橋島)を出発した後、周防大島に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を抜けて、古柳井水道(唐戸水道、唐戸の瀬戸)を通って、田布施町の麻里府に至り、大嶋を思い出したり祝島を遠くから眺めたりしたと考えるのが自然である。
 なお、山口県東部の瀬戸内側は上述のように古代熊毛王の支配地で、古代には熊毛郡といわれた。天平8年の遣新羅使の10年あまり前に熊毛郡の東部が分かれて玖珂郡となったとされる。万葉集に玖珂の麻里布とあるので、岩国の麻里布と考えるのはもっともであるが、郡の名ではなく地名としての玖珂はそれ以前からあったであろうし、その地域も漠然としていた可能性があるので、田布施町の麻里府を玖珂の麻里布と呼んだこともありうることである。実際、郡としての玖珂郡と熊毛郡の境界はその後も動いている。
麻里布を田布施町麻郷の麻里府とすると、その後で立ち寄る熊毛の浦はどこになるのであろうか。室津半島(上関)に戻るのは不自然である。田布施町の麻里府から海岸伝いに西に行くと、祝島の真北にあたるところに現在の光市の室積港があり良港である。室積は徳川時代に北前船の寄港地として栄え、室積村は明治期に熊毛郡の郡役所があった地でもある。麻里布が田布施町の麻里府とした場合、この室積が麻里布の後に停泊した熊毛の浦とするのが自然である。遣新羅使はその後、室積から佐婆といわれる徳山あるいは防府の辺りに行こうとして、あるいは行った後に、周防灘(佐婆海中)で大風にあったのであろう。可良の浦に当たる場所が室積の近くに見つかれば面白いのだが。

中央の歴史学者や万葉学者は通説である倉橋島(長門の浦)―岩国(麻里布)―上関(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路を主張する。
一方、地元の柳井の歴史家達は倉橋島(長門の浦)―田布施町麻里府(麻里布)―室積(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路であると主張している。

私は山口県の出身ではないが、いま柳井に住まいして近隣を散策して考えを巡らせていると、万葉集巻15の遣新羅使の歌にある麻里布は田布施町麻郷の麻里府であるという説の方に説得力があるように思われてくる。

歴史問題2019年09月11日 17:49

 日本では8世紀に書かれた「日本書紀」で神武天皇の即位が紀元前660年ということになっているが、朝鮮半島では13世紀に書かれた「三国遺事」で壇君王建が紀元前2333年に朝鮮国を建国したことになっている。これは神話ではあるが、韓国の歴史では、この朝鮮国を「古朝鮮」として後に中国の漢帝国(武帝)に滅ぼされるまで続いた国と考えられている。
 実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
 その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
 やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
 唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
 やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
 やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
 李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
 弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
 近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
 太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
 周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。

皇統の考え方2019年07月10日 17:56

 アフリカから出たホモ・サピエンスが日本列島に来たのは数万年前とされる石器時代後期である(第1期移住)。その頃は寒くて北海道は大陸と陸続きで、朝鮮半島と日本列島の間の海も狭く渡るのに困難はなかった。南からは島伝いにやって来たと考えられる。最近丸木舟で当時は中国大陸と陸続きであった台湾から与那国島へ渡るという国立科学博物館の実験が成功した。列島の沖は太平洋でこれより先はないから、列島に来た人達はいわば吹きだまりに集まったようなもので、逃げようもなく、列島はいろいろな方面からいろいろな時期に来た人達の「るつぼ」となるように運命づけられていた。やがて1万4千年前、温暖期を迎えると、海面が上昇して大陸からの移住は困難になる。列島の人達は新石器時代を迎え、縄文人となる。
 ユーラシア大陸では1万2千年前に一時的な寒の戻りがあり、野生の穀物が採れなくなった人達が農耕を始め、いわゆる4大文明が興る。ただし、日本列島はその後も縄文時代が続く。中国大陸では9000年前に黄河流域で畑作(アワ)が、8000年前に長江流域で水稲耕作が始まる。しかし、4000年前にやや冷涼化した時期があり、長江の水稲耕作は衰え、黄河文明が優勢となって、夏王朝ができる。この文明化から逃れようとした人達が海のルートを開拓し、日本列島へ移住したといわれる。縄文後期の移住で、後の列島各地の海民の先祖ともいわれる(第2期移住)。
 水稲耕作は5千年前には長江流域から山東半島に伝わり、朝鮮半島南部には3100年前(紀元前1100年)に伝わったとされる。この頃商(殷)王朝ができる。殷は黄河下流の山東省を基盤とするが、やがて西方から周が興り、3050年前に殷が滅ぶ。殷の遺民の一部は朝鮮半島に逃れる。この頃(紀元前950年頃)水稲耕作が、朝鮮半島南部あるいは前に開拓された海のルートで山東半島から、玄界灘沿岸に伝播してきたと考えられている。その後数百年かけて列島全体に水稲耕作が広がっていく。水稲耕作を持ち込んだ人達は(第3期移住)縄文人とは顔つきが異なる人達で、やがて縄文人とも交流して、弥生人(倭人)となる。この時、縄文人と新たな移住者の間で戦争はなかったようである。
 倭人となってからは多くの国ができて互いに戦争するようになるが、大乱後に共立された卑弥呼の例や、神話の大国主神の国譲りのように、矛盾を抱えながらも共存する形が多い。また辺境では平安時代初期まで倭人化してない人達との戦いもあるが、これも徹底的ではない。
 殷には神話があったが、周には神話はなく、革命思想で王朝の交代を正当化した。以後中国では革命により王朝が交代することになる。
 日本列島では倭人の国が分かれていた頃の最大の国は北九州の伊都国であるが、卑弥呼が共立された頃から纏向地域の前方後円墳を造る政権が樹立される。彼等は出雲系であった可能性があるが、4世紀になると天孫系王朝に交代する。崇神天皇の頃である。出雲系から天孫系への国譲りはこの時であったと考えられる。崇神王朝は仲哀天皇の頃までで、4世紀末の応神天皇の頃からいわゆる倭の五王の時代は応神王朝というべき王朝になる。応神天皇の母は仲哀天皇の皇后である神功皇后であるが、父が仲哀天皇であるかどうかは疑問とされる。さらに倭の五王の最後である雄略天皇の男系血統が絶える6世紀には、応神天皇5世の孫と称して継体天皇が豪族によって擁立される。応神王朝から継体王朝への交代である。
 神武天皇を実在の天皇とするのは論外であるが、実在の天皇の最初といわれる崇神天皇から見ても、倭国にはその前に出雲系王朝があり、その後も応神王朝、継体王朝と王朝が交代している。その後も蘇我氏の時代や、天智天皇、天武天皇の時代には王朝交代といっても良いような事件が起こっている。日本書紀、古事記は天武天皇が編纂を命じたとされるが、この史書においては王朝の交代は見られず、神話時代から始まって天照大神の子孫が神武以来の天皇になったことになっている。
 おそらく実質的な王朝の交代はあったとしても縄文時代以来、この列島では支配者の交代にあたって革命的な手法を採らず、矛盾を抱えたまま共存することが続いた。それはおそらく大陸と異なり、負けた側が外に逃げ出すことが地理的に困難であったことと、中国や朝鮮半島の国際情勢のために、国内だけで革命に至るまで戦争をしていることが許されなかったためであろう。やがて天皇を政権の担当者から外す工夫をすることによって、さらに革命の起こらない国とした。この状況は明治維新までも続く。太平洋戦争の敗北は天皇制にとって最大の危機であったが、危うく難を逃れた。
 万世一系の男系男子という伝統は天武時代に創られたフィクションである。とすれば、現在の我々はフィクションにこだわることなく、女性天皇や女系天皇も認めるか、あくまで男系にこだわって、男系女性天皇にする以外に方法がなくなったときにはその夫または後継者を遠い先祖が天皇であったというフィクションを作るほかないであろう。

安倍首相の下での皇統の維持策は旧皇族の復活か?2019年05月06日 15:59

 嫡出の男系男子に限るとする現在の制度ではいずれ天皇の後継者はいなくなる。過去の天皇の半数は嫡出子ではないといわれるものの、嫡出子でなくても良いと側室制度を復活することは現在の国民感情となじまない。とすると男系男子の条件を外すか、過去の皇族を復活するしかない。
 いまどき男性に限るのはおかしいというのが多くの国民の意見であろう。過去に女性天皇もいたので、女性が皇位につくことには反対は少ないと考えられる。ただし、女系の天皇はいなかったとする人達は男系にこだわる。
 過去の皇族を復活させるということに関しては、武烈天皇に後継者が無かったため、応神天皇の五世の孫であるとして継体天皇を即位させた先例がある。もっとも、当時は天皇の子孫は、後世の歴史書は〇〇王と記されていて、皇族と見なされていたので、臣下から皇族への「復活」ということではない。
 継体天皇の時は、実際には王朝が断絶したのだという説もあるが、大和政権以外の勢力が大和政権を打倒して新政権を打ち立てたのではなく、大和政権の有力者が皇統を継続させるために考えた策である。天皇の後ろ楯となる有力者としてそれ以前は葛城氏がいたが、継体天皇即位後は葛城氏のもとにいた蘇我氏が最有力者として現れるようになるという、有力者間の力関係の変化はあるものの、磐井の乱を鎮圧するなどして政権は安定化し、継体天皇の皇統は現在まで1500年続く。
 また平安時代には、いったん臣籍降下していたが周囲の有力者の思惑から再び皇族となり皇位を継いだ宇多天皇の例もある。これら「復活」の例に限らず、天皇の即位に関しては時の政治的実力者の意向によって後継者が決まる場合が多い。壬申の乱や保元平治の乱のように戦乱になった場合もあるが、多くは豪族、貴族、幕府などの意向によって決まっていった。
 現在では国民主権であるから国民の総意で決めればいいということかも知れないが、やはり実際には国民の代表者である時の政権や政権に近い有力者の考えで決まるのであろう。安倍首相は官房長官時代に皇室典範を変えれば壬申の乱のようになると当時の小泉首相に言ったと伝えられるが、テロを起こすような人達がいるということなのであろうか。その安倍晋三氏が今は首相である。皇室典範は変えず、過去の天皇の五世の孫までの旧皇族の復活が結論となるであろう。

トランプ批判の筋違い?2018年06月13日 15:43

 6月12日の米朝会談の結果に対する、多くのトランプ批判がなされている。しかし、それらは批判している人達の政治的信条に基づく批判であって、トランプ大統領の信条に基づく行動として会談がうまくいったかどうかを論じているものではないように見える。
 トランプ大統領は大統領選挙前から、アメリカ・ファーストを唱え、経済的に貿易収支の赤字に不満を述べ、軍事的にもアメリカが世界の警察として軍事費を出費することに反対してきた。可能な限り海外に駐留する軍隊を撤退させたいのが本音である。しかし単に金がないからすごすご引き上げるという無様な様は見せたくない。平和を確立したから撤兵するという形で、本音とする軍事費を減らしたい。
 この意味でトランプ大統領は今回の会談は成功だと思っているであろう。金正恩もトランプを譲歩させたと喜んでいる(署名が終わったときの金正恩は、よくぞここまで来たと、感極まっているようにも見えた)と思われる。恩を着せられた金正恩は事態をご破算にしないために(トランプが心変わりしないうちに)アメリカに到達するミサイルは破棄しても良いと思うであろう。アメリカ・ファーストのトランプにとっては軍事的にはそれだけで十分なのである。
 多くの政治家や評論家がこれまでのパラダイムのなかで批判してみても、意味が無い。トランプの行動はパラダイムを変えようとしているのである。その変化のなかで、事態にどう対応するかを考えるのが政治家や評論家の役目なのではないか?
 朝鮮半島は中国の影響下に入り、日本は中国との関係では、かろうじて独立を保ちつつ対峙するという、古代の東アジアの地政学的関係と同じようになる可能性がある。また、日本とアメリカの関係は、かつての琉球王国と日本との関係と似た形になるのかもしれない。

ダッカ「日本人だ、撃たないでくれ」が通じるか?2016年07月05日 17:36

 ダッカの有名なレストランで武装グループによる発砲事件が起こり、イタリア人9名、日本人7名を含む外国人22名が犠牲になった。日本人は全てJICAやJICAに関連する仕事のために滞在していた人達で、バングラデシュの発展のために献身的な努力をしていた人達だという。被害者やその家族、関係者の無念さを思うと、本当に痛ましく残念に思う。
 武装グループのメンバーは、いずれもバングラデシュの裕福な家庭の子弟で、高学歴だという。レストランに入った後、彼らは客をイスラム教徒とそれ以外の者に区別し、バングラデシュ人達は別室で食事も与えられていた。明らかに外国人を狙った襲撃事件である。
 襲撃の時に、「日本人だ、撃たないでくれ」といった人がいるという報道に対して、元外交官が、「日本人なら安全というのは昔話で、ISは安倍首相に対してお前の国民を場所を問わず殺戮すると言っていたではないか」とコメントしたところ、これに対してネット空間で「テロリストの仲間か」などと批判が集中しているという。
 現在のISなどの実情は、私は知らないので上記の議論にコメントすることはできないが、今回の武装グループがイスラム教徒以外の外国人を狙ったことだけは事実である。バングラデシュは親日国であるという。ではなぜ「日本人だ、撃たないでくれ」が通じないのか。
 テレビ等では、日本が先進国では最初にバングラデシュの独立を認めたこととか、多額のODA援助のことが報道されている。特にジャムナ橋の工事で多額の援助をした時には、金は出したが日本のゼネコンが工事したわけではないと、ゼネコンの金儲けのための援助ではないかのように報道されている。しかし実は入札で技術審査の段階で韓国企業に負けただけのことだという。最近は官民挙げて日本企業の受注を目指しているように見える。新興国では政府関係者の汚職などの問題もあるかもしれないが、援助そのものはその国の民生に役立っているはずで、援助する側が憎まれるのは筋違いともいえる。
 しかし、イスラム世界では、援助される者は礼を言わず、援助する側が援助させてもらったことを感謝すべきなのだという。イスラムはその歴史のはじめ戦争ばかりしていたので、その犠牲になって社会的弱者になった者が多く、平等に扱うなら妻を4人までもっても良いというのは、戦争で夫を失った女性達を経済的に救うための、いわば社会保障制度だったという。援助される者が礼を言わなくて良いというのも、援助する方が奢らず、援助される方が卑屈にならない社会にするために、そういうことにしたのかもしれない。
 しかし、そうはいっても援助されるだけで、援助する側になれないものの心は、屈折するのではないだろうか。互酬性社会ではものを贈られた側は贈りかえす心の負担を感じることを前提として社会が成り立っているというが、負担を感じる一方だと誇りが持てず、不満がたまるのではないか。高学歴でも、それを活かす仕事が少ないといった悪条件が重なると、その不満が、援助する側にぶつけられるという理不尽なことも起こるのかもしれないと思った。

戦後70年ということ2015年04月04日 15:26

 2015年4月3日の朝日新聞で、佐伯啓思氏が「戦後70年」に関して、1952年4月28日にサンフランシスコ講和会議が発効し、この時をもって連合国との戦争状態は終了するとされており、戦後はこの時から始まるので今年は「戦後63年」であると述べている。その上で1945年8月15日は敗戦の日で、その日から、あるいは正確には降伏文書に署名した9月2日から主権を剥奪された占領下にあった。主権が奪われた状態で憲法を制定できるのであろうか、という原則論を展開している。
 なるほどそういう議論はもっともであると思う。しかし何か違和感がある。白井聡氏の「永続敗戦論」を読んだときも。全くその通りで自分たちの戦中戦後を経験した世代にとって新しい受け止め方とは思わなかったが、敗戦直後の雰囲気の受け止め方に少しだけ違和感を感じた。
 この違和感がどうして起こるのかを考えてみるに、どうも戦中や敗戦直後のことは自分たちにとっては生きてきた「現在」であるのに対して、若い世代(佐伯氏はもう若くはないが戦後生まれで物心ついた頃には日本は主権を回復していたであろう)にとって敗戦直後のことは「過去の歴史」なのかも知れないということである。
 日本で敗戦という言葉の代わりに終戦という言葉を使い、民主的日本再生の「物語」を作ったということは事実であるが、占領軍が闊歩していた当時の日本人が敗戦を認めていなかったなどということはありえない。しかし、一方で日本が負けたにもかかわらず天皇は連合国側からみた戦犯にもならず、国内的にも責任を取らず退位もしなかったという事実もある。戦中の大本営発表を含めて、戦中戦後の「物語」がまさしくフィクションであることを当時の日本人は言わずもがなのこととして分かっていた。
 経験していても昔のことを上手に思い出すことは難しい。まして経験していない世代にとっては文献学的に過去のことを想像するしかない。歴史認識というものは所詮そういうものであろうから、一人ひとり異なっていても当然であろう。このところ言わずもがなのこととして戦争のことを話さずにいた老人たちが、このままでは自分たちの経験が活かされないと重い口を開き始めているが、うまく伝わるのであろうか。
 1952年以後、主権を回復したということも実は怪しいのではないであろうか。少なくとも防衛と原子力に関しては独立国とはいえないことを当事者と外務省はよく分かっていると感じる。棺桶に片足突っ込んだ人間が言っても仕方ないことと思いつつも、政治家たちが戦後70年でまた新しい「物語」を、今度はフィクションだと思いもしないで、作るのではないかと気にかかる。

「イスラム国」はイスラムの事象としていてわかるのか?2015年01月22日 16:32

 「イスラム国」が日本人2名を拘束して身代金を要求していることが明らかになって、イスラム世界に詳しい識者によってさまざまに解説がなされている。結果がどうなるにせよ、イスラム世界を知ることは重要であるし、人質解放に向けてあらゆる努力がなされるべきであろう。
 日本人がイスラム世界のことをあまりに知らなさすぎることを認識させられたのは今回が初めてではない。石油危機のときにも中東の石油国との関係が重要であるといわれたし、とくにいわゆる湾岸戦争・イラク戦争のときにはイスラム世界の理解なしに日本人が関わることの問題が指摘された。
 かつての日本人にとってはイスラムにコーランがあることは知っていても内容は知らず、アラビアンナイトの世界であろうというぐらいの認識で、いわゆる中近東地域は政治的には戦後イスラエルとパレスチナが戦争している地域、経済的には石油を購入している地域であるといった程度の理解であり、イスラム世界を知る必要性はあまり感じてこなかった。上述した事件との関わりなどを通じてイスラムを知るべきだという議論が起こり、イスラム世界に詳しい人々の解説を聞くようになった。しかし、イスラム世界は日本人にとっては別世界であり、歴史的にも地域的にも複雑なので、すっきりした理解は困難であった。事件が起こったときにその場限りの解説を聞いても、暫くすればまた理解不能なことが起こることが繰り返された。識者からは日本人はイスラム世界を本当には理解していないといわれ続けてきた。
 しかし、イスラムを理解した上で「イスラム国」を理解しようとするのが、間違っているとはいわないが、その道筋だけが理解の方法であろうか。むしろ日本人としては日本や東アジアの、我々がよく知っている歴史との比較で見ると理解しやすいのではなかろうか。
 イスラム教が発明されて以来、アフリカの地中海沿岸から中央アジアにかけてイスラム世界が広がり、そこに多くのイスラム教の国の興亡の歴史があるが、それは中国でいえば周が興った後に分裂し、春秋戦国の時代に多くの国々の興亡の歴史が続いたようなものであろう。あるいは日本の律令国家が弱体化し、鎌倉幕府時代を経て戦国時代に多くの領主主権の興亡史が続いたようなものであるともみなせる。ヨーロッパでも中世からルネサンス期にかけては各地の領主主権が競い合った時代であった。共通しているのは、これらの国は現代のいわゆる近代国家とは異なるということである。
 近代国家は国境を設定し、国民を創成し、富国強兵を国是とする。しかしこれらの国々は有力な武装集団が自らの支配地域を拡大して権力を樹立する動機で行動しており、支配した人民を奴隷と見なすことはあっても国民とは見なさない。わが国でも支配された側が被差別部落民となったとする説もある。国の境も実効支配に意味があって流動的である。力があれば拡大し弱体化すれば縮小して支配地を維持するだけのことである。国が富むよりは支配者が富むのが先である。
 イスラム世界では最近までそのような世界であったから、現在近代国家のような姿を整えている国も先代の時代に有力であった部族長が武力で支配地を広げ国王や大統領になっているだけのことである。従って国の中に現在でもある程度の力を持った部族長たちが残っており、あるいはしばしばクーデターで支配者が交代するのは、そのような世界観の時代が続いているからである。「イスラム国」もまた、すこし歴史に遅れて来た、そのような武装勢力である。成功すれば近隣の国と同様な国を作るかも知れないし、近隣の国をも支配して拡大するかも知れない。欧米中心の戦後世界秩序を守れとか、力で国境をかえるなといった理屈は彼らには通用しない。かつてはイスラム世界以外の地域でも存在した世界と同じようなことが現在のイスラム世界では起こっていることなのだと分かれば「イスラム国」も理解できるのではないか。

大化の改新と明治維新2014年11月03日 10:21

 いわゆる大化の改新は、乙巳の変というクーデターだけがまずあり、すぐには大化時代にはまだ改新といえるほどの改革はなく、律令国家をめざす改革はその後の天武天皇時代にいたるまで長く続いてなされたという理解に、最近ではなっているようである。一方、明治維新も、戊辰戦争というクーデターの時点だけをいうのではなく、その後の数十年にわたる近代化の改革をいうべきであるように思う。日本の歴史の中で、「改新」と「維新」は、いずれも外国の脅威にさらされ、急いで国家体制を根本から変えて、新しい国際情勢に対応しようとした行動であったと考えられる。
 「改新」の少し前から、中国大陸に強大な隋・唐帝国ができ、それに対応して朝鮮半島情勢も変化する中で、倭国は百済と連携して唐にあらがおうとするが白村江で大敗し、百済は滅亡する。国家存亡の危機を感じた大和朝廷側は各地に城を築き、都を大津に移すなどして防備を固めるとともに、中央集権的な国家の樹立を図るため、唐にならった律令国家を作ろうとする。天武天皇の時代が「改新」活動の最盛期と考えられる。全土に高規格の幅の広いいわば高速道路を建設し、律令の法制度を整え、自らの王朝を正当化する国史を編纂する。危機意識を伴った「改新」の勢いが最終的に収まるのは、平安時代に唐の勢いが衰え遣唐使が廃止される時である。
 「維新」は圧倒的な軍事力を見せつける西洋列強の脅威にさらされた日本が、やはり国家存亡の危機を感じて、急激に列強に習った近代化を進めたプロセスである。国家神道を創成し、国民教育を施し、近代技術を導入して、中央集権的な富国強兵策を進めることになる。これは昭和の時代まで続くが、遅れてきた少年の暴走は列強によってたたかれ、太平洋戦争に敗れる。しかし、日本は再び列強に追いつくために官民一体で中央集権的経済成長路線を続け、復興を成し遂げ、経済大国の仲間入りをする。平成に入ってようやく日本の人々は「維新」を卒業した状態になってきているように見える。ただし、一部の人々は今も国家存亡の危機を演出したがっている。
 「改新」や「維新」は日本の歴史にとって異常な時期であった。冷静な歴史認識が必要である。

今後の原子力を考える2014年09月02日 09:29

(いま考えることの重要性)
 核反応に伴って放出されるエネルギー、いわゆる原子力は、これまで主として兵器および発電に使われてきている。北朝鮮などにおける核兵器開発の動きと東京電力福島第一原子力発電所の事故により、今後の原子力政策がどうあるべきかが、軍事利用の面でもいわゆる平和利用の面でも、これまでになく大きな課題となって来ている。
 核兵器に関しては、太平洋戦争末期の広島と長崎における原爆投下による被爆と、ビキニ水爆実験による漁船員の被災を経験した日本人の間では核兵器をなくしたいという気持ちが強い。しかし世界にはいわゆる核大国の他にも核兵器を保有する国もしくは保有したい国々がある。
 一方、発電に関しては、日本も平和利用と称して推進してきたが、東京電力福島第一原子力発電所の事故で甚大な被害が生じたことで、今後のあり方が問われている。しかし世界的には特に新興国において今後も原発を建設したいという国もあり、これに応えて日本でも国内の原発の再稼働だけではなく、原発の輸出を図ろうとしている。
 今こそ、無定見なその場かぎり対応を重ねるのではなく、長期的な視点でこれからの原子力がどうあるべきかを真摯に考える時である。

(原子力の特徴)
 原子力が利用される以前から人類が利用している化学反応に伴うエネルギーと比較してみると、原子力は極めて少量の物質で莫大なエネルギーを発生するという特徴と、反応の際に放射線を発生し、さらに放射線を放出する能力(放射能)がある物質が生じるという特徴がある。
 第一の特徴である少量の物質で大量のエネルギーを作ることができるということは、兵器に利用する場合、通常の火薬による爆弾よりはるかに大量の殺戮が可能な爆弾を作ることができることを意味する。大量破壊兵器といわれる所以である。発電の場合も少量の燃料を備蓄することで長期間の発電が可能になるので、日本のような石油がない国では準国産エネルギーと考えられ、エネルギー自給率が高まるともいわれる。
 第二の特徴である放射線に関しては、微量の自然放射線による被曝は人類が原子力の利用を始める以前からあったことであるが、大量の放射線被曝が即死をもたらし、少量であっても発がんのリスクが高くなる問題がある。このことを、おびただしい実例で身を以て示したのは広島・長崎の犠牲者たちである。核兵器が使用された時の放射線影響と対策はそれ以前の兵器にはない異質のものである。また原発からの放射線遮蔽と放射性物質の閉じ込めも他の発電所にない技術を必要とする。

(利便性と危険性ならびに制御可能性)
 アルフレッド・ノーベルは、取扱が危険なニトログリセリンの改良研究を行い、途中で事故を起こしつつも、より安全な爆発物であるダイナマイトを発明して巨万の富を得ることに成功した。その後、死の商人と言われることを気にしたのか、遺産をノーベル賞の基金とした。しかしダイナマイトは戦争で使われるだけでなく、各種の工事にも使われる。工事現場でも事故が起こるリスクはある。ダイナマイトは典型的な例であるが、全ての発明品には同様な利便性と危険性がある。原子力はその二面性が極端に大きなものである。
 福島の事故を受けて、原子力は人間にはコントロールできないものであり、神ならぬ人類が扱うべきものではないとの主張がなされ、さらには科学一般についても否定するような傾向が見られた。しかし人類は道具を使うことで他の生き物とは異なる文明を発展させたわけで、科学や技術を否定することと人類の存在とは相容れない。そこで人類の存在が悪であるという考え方も出てくるかも知れないが、神を持ち出しては、議論が宗教論争のようなもの、あるいは魔女狩りのようなものになる。ここではそのような形而上学的議論より具体的な場合について考えてみる。
 高速道路を走っている自動車の場合、運転手はハンドルやブレーキで方向や速度を制御できるが、ひとたびガードレールを飛び出して谷底に落ち始めるとニュートンの法則に従い、重力によって放物線を描いて落下するだけで、運転手がハンドルやブレーキで落下中の軌道を制御することはできない。そういう意味で人間は自然をコントロールできない。
 原子炉の場合も、一個の中性子がウランに衝突するとき、必ず核分裂反応が起こるわけではなく、起こる確率(いわゆる反応の断面積)が決まっていて、その確率を人間が変えることはできない。ここでも人間は自然をコントロールできない。しかし、原子炉の中にある中性子の数は制御棒で制御できるので、原子炉内で起こる核分裂の数を制御することはできる。つまり制御棒が正常に動作する限り、原子炉の出力を制御することや運転を停止することはできるのである。自動車の場合も原子炉の場合も人間がコントロールできるところとできないところがある。
 自動車の場合は、自動車事故の死者は非常に多いにも関わらず、運転手は事故のリスクを承知の上で運転しており、また自家用車の場合には事故の影響が及ぶ範囲も限られていると思われているから、反自動車運動は起こらない。しかし、原発は事故が起これば広範囲に影響が及び、放射線という日常的には実感できないリスクが関わるので忌避したくなる。この心情に加えて、世界の最新の原子炉に比べて安全性に劣る原子炉がいまだに使われており、電力会社のトップは腐敗していて信用ができないとあっては、反原発運動が起こるのは当然である。

(原則と現実)
 核分裂反応は自然科学現象であり、その発見や知識をなかったことにはできないし、それを理解しておくことは、この宇宙で、地球で人類が生存するために有益である。問題はそれを応用する技術として、原爆や原発を発明した時に、それを実際に使うかどうかの判断であった。しかし、原子力は政治的理由によって早すぎる使用がなされた。
 原爆は、本来ドイツに対して使用することを目指して開発された。しかし、開発完了時に既にドイツが降伏していたため、効果を試したい米軍が日本の降伏前に急いで広島・長崎でそれぞれウラン型・プルトニウム型を投下した。
 原発の場合には、発電炉として最適のものを開発してから実用化されたのではなく、発電でソ連に先を越された米国が急いで潜水艦用の原子炉を改造して発電用軽水炉を製作し、軽水炉が主流になったという現実がある。
 日本では最初の原子力委員会で湯川秀樹は基礎研究を行った後に実用化を目指すべきとしたが、委員長の正力松太郎は早期に外国製の商業炉を輸入する路線を主張した。湯川は、この最初の委員会直後に、湯川の委員就任を支持した周辺に対して、君たちが言っていたのと話が違うから自分は委員を辞めると言いだし、森一久らがなだめたというが、結局1年後に体調不良を理由に委員を辞任する。このままでは湯川がつぶれるからと心配した京都の支援者達がやめさせたという説もある。
 人類が数十年にわたって核兵器を保有し原発を使用してきた今となっては、無かった状態には戻せない。しかし、この状況下でもなお、私は原子力の利用に関して、原則的には次の3点が基本であると考える。
1.大量破壊兵器である核兵器は廃絶すべきである。
2.事故のリスクが大きい現在の原発は廃止すべきである。
3.安全原子力システムと使用済燃料処分技術の基礎研究を行うべきである。
 とはいえ、この原則を直ちに実行実現することは容易ではない現実がある。その根本的な原因は、人類史の現在の発展段階にある。以下に上記3点のそれぞれについてコメントする。

(核兵器の廃絶)
 ヨーロッパに始まり、その後は世界を舞台とした、近代国家による幾度かの大規模な戦争、特に非戦闘員を巻き込む世界大戦は、産業化された総力戦となり、甚大な被害を引き起こした。その反省から非人道的な兵器の使用を禁止する国際法や、国際連盟や国際連合といった平和のための組織作りがなされた。第二次大戦後、ヨーロッパでは永年の宿敵であったドイツとフランスが和解し、ヨーロッパ連合(EU)へと進化している。
 しかし、世界的にみれば、各国は依然として近代国家の枠組みで動いている。近代国家は、国境を定め、国民を定義する。その国是としては、基本的に富国強兵を原則としている。富国強兵は、強い国と弱い国、富める国と貧しい国という格差がないと原理的に成り立たない概念である。
 兵器に関しては、生物化学兵器は非人道的であるとして禁止したものの、最大の大量破壊兵器である核兵器については、これを持つ大国は保有し続け、持たない国が持つ国になることを妨げるという状態が生じている。このように現在の核不拡散条約(NPT)が不平等なのは、近代国家の原理が働いているからである。したがって、近代国家体制が続く限り、もし核兵器がなくなる時があるとすれば、それは核兵器以上に強力な大量破壊兵器が発明された時である。
 湯川秀樹はこの現実を顧みて、人類は近代国家体制の段階から次の段階に進むべきだと考えたのであろう、世界連邦を目指す運動を始めた。実際、人類社会の長い歴史を考えると、ホモサピエンスがアフリカから出て世界中に広がって行った数万年の歴史と比べても、近代国家の時代はたかだか200年程度のものであり、ずっと昔から続いて来たものではない。これが人類の発明した最終的な優れた仕組みともいえないから、やがて次の段階、湯川にとっては世界連邦、に移行するであろうと考えたのも無理はない。
 しかし、湯川の提案はおそらく100年早かった。世界連邦を作ることは当時としては非現実的な夢物語であり、今もなお、そうであろう。人、もの、金(マネー)が国境を簡単に越えてグローバルに動き回る時代になり、先進地域であるヨーロッパで試みられているEUは人類史の次の段階を目指すものであるかもしれないが、未だ完全に成功しているとはいえず、試行錯誤段階である。まして他の、特に中国などのいわゆる新興国といわれる国々は近代国家としての大国を目指して、まさしく富国強兵路線を突き進んでいる。アメリカもロシアも卒業できていない。日本は悲惨な敗戦を経験して、二度と戦争をしないという決心をしたが、世界の現実と合わず悩んでいる。
 大坂夏の陣で、徳川方が行った町民に対する殺人、強姦、略奪、暴行、放火などは凄まじく、敵の将兵の首を取ってくれば褒美を出すと言ったために町民の首を取って敵の将兵の首と偽る、いわゆるニセ首が横行した。初めて大規模な城下町を戦場とし、非戦闘員を巻き込んだ戦争の酷さに恐懼した武士達は、家康に信服していたわけではないが、もはや戦争はやめようと考え、その効果は200年間続いた。ヨーロッパでは第一次大戦で初めて本格的な非戦闘員を巻き込む悲惨な戦争を経験したが、戦後処理を誤ったために30年足らずで第二次大戦が起こった。
 日本における太平洋戦争の悲惨な経験の効果はいつまで続くであろうか。やがて戦争を知る世代がいなくなった時に、日本は世界の現状に合わせてもう一度戦争を経験しなければならないのであろうか。戦争経験者には現在の日本の政治と原子力の状況を懸念している人が多い。しかし絶望すべきではない。
 理想がすぐには実現しそうにない現状でできることは、いずれ多くの国が、近代国家の行き詰まり、すなわち全ての国が平和裡に富国強兵的近代国家にはなり得ないという原理的矛盾、を認識するであろうと希望を持って、それまでは理想を掲げつつも現実的に一歩ずつ前進することであろう。具体的には、不完全な組織であっても現在ある国連やIAEAなどの国際機関をあるべき方向に持っていく努力をし、国際紛争を関係国による戦争によって解決するのではなく、国連の警察力を活用して解決するという、既に原則的には合意されている仕組みの実現に近づける努力をすることがまず求められる。
 核兵器に関しては、少しでも大国の核兵器が縮減されるような交渉を進め、世界平和と核不拡散のシステムの整備に合わせて、段階的に全世界の核兵器の廃絶へと進めるしかない。このためには、まず不平等なNPTをより平等なものにすることによって、核廃絶に対する核兵器を持たない国の理解を得る努力が必要である。
 この際に、日本は米国の核の傘のもとにいることは明らかなので、特に核兵器保有量が多いアメリカとロシアに核兵器廃絶を求める姿勢を示さない限り、日本が核不拡散の訴えをしても、核兵器を持たない国に理解されることはないであろう。

(原発の廃止)
 もともと、原子炉の実用化は核兵器用のプルトニウムを生産することから始まった。しかし米国はソ連との軍拡競争を進めるにあたり、米国への支持を集め、反核運動を沈静化するために、アイゼンハワー大統領が国連演説(Atoms for Peace)を行い、CIAは日本において読売新聞社の正力松太郎を通じて、大々的な原子力平和利用のキャンペーンを行った。最近公表された米国側の文書によると、当時米国では、この作戦は成功し日本人の反核感情は収まったと評価されていたようである。水爆実験による第五福竜丸以外の多くの漁船員の被曝実態が封印されたことも明らかになっている。
 日本が原子力の平和利用に進んだのは、このような米国側の動機だけではなく、日本の政治家たちの側にも、核兵器開発が可能な原子力技術を確保したいという隠れた動機があったからだと思われる。こうした話は日本だけではなく原子力反対の国と思われているドイツでも、近年ミュンヘンに高濃縮燃料を使う新しい基礎科学研究用の原子炉が建設できた裏には、研究者たちが保守的な地元の政治家に「高濃縮燃料を取り扱える技術を持つことは国防上重要である」と囁いた結果予算が獲得できたからだといわれている。
 なお、当初から高速増殖炉を建設する路線を採用したことも、ウランがない日本で資源を有効に使うという平和目的の理由だけではなく、使用済燃料の再処理能力とプルトニウム生産能力を持つことが核兵器保有能力につながるという政治家の思惑と結びついていたためだと思われる。早期に再処理路線を採用していたために、後の核不拡散の議論の際に、核大国以外で日本は唯一の例外国として再処理が認められた。近代国家体制にあって、これが持つ意味も重要である。
 原発導入に当たって、東京電力にとっての不幸は、地震が少ない米国東部向けに設計されていたGEの沸騰水型軽水炉を、地震国である日本に設置することに対する配慮が全くなされないままに、導入したことである。関西電力などの加圧水型軽水炉は、少しはましであるものの、これも全電源喪失対策が充分であるとはいえないものが導入された。1960年日本原子力産業会議は事故の規模を試算し、事故時の賠償が国家予算に匹敵するほど膨大になるとの試算を得ていた。電力側は原発の導入を躊躇したが、政府がある程度以上の大事故については国が賠償責任を持つということを決めて、政治主導で建設が進められた。 現在は、完全とはいえないものの、長期の全電源喪失に耐えられるような、より安全な軽水炉の開発はなされてきているが、古いものを最新型に置き換えるということはなされていない。電力会社が安全対策に金をかけようとしなかったのは、単に経済優先という理由だけではなく、政治家が国家方針として進めた政策によるところも大きい。
 現時点の技術でも実現可能な世界最高水準の安全基準を求めた場合、日本に現在ある原発は全て基準を満たせないであろう。誰が言い始めたのか、日本の原子力規制委員会の基準が世界で最も厳しいなどとまことしやかな説を振りまいて、再稼働を進めるのは危険である。再び今回の福島の事故と同様な事故が発生するリスクは高い。
 原発を今後も利用するのであれば、本来は、現在の軽水炉よりもっと原理的に安全な新しい原子炉を開発してから、利用すべきである。それが待てないのであれば、せめて現在の原発は全て廃止して、暫定的に、長期の全電源喪失に耐える最新式の軽水炉に置き換えるべきであろう。既存の原発の再稼働か反原発かだけの選択は危険である。
 しかし政府は、将来はなるべく原子力に頼らないようにすると言いつつ、今は再稼働の実績を早く作ろうとしているように見えるので、いずれいくつかの原発が再稼働されるであろう。また、現在の世論調査の結果でも、2030年代に原発を廃止するという意見が多いものの、ある程度の原発は必要との意見もあるのが現実である。
 そこで、現実的対応としては、安全基準を満しつつ比較的新しい少数の原発の再稼働を認めるとしても、なるべく再稼働よりは最新式のものに置き換えることを進め、現在の世論分布を参考にして2030年に10基程度が稼働している状態をめざす。その上で、その時点の世論動向を考慮して、その後の選択をするといった方針が考えられる。

(安全原子力システムと使用済燃料処分の基礎研究)
 安全神話と、より安全な原子炉の存在は矛盾するので、これまでは、より安全な原子炉の研究には予算が出にくかった。しかし福島の事故で、安全神話の破綻が明らかになったので、より安全にするための改修が求められており、それによって新しい安全基準を満たすことができれば再稼働を認めるというのが政府の方針である。一方、既存の原発を改修した程度では事故が再発するリスクが高いので、反原発派はこのまま再稼働せず全ての原発を廃炉にせよという。しかし、原発を全廃まではしなくてよいという意見も根強く存在する。
 少数意見も無視しないのが民主主義であるなら、先に述べたように、より安全な原発をある程度利用しつつ議論を続け、今後の安全研究の成果も参照しつつ、全廃するか利用を続けるかを、例えば10年ごとに世論動向に沿って、判断するというのが現実的であろう。さらに現在の軽水炉の改良ではなく、より革新的な安全原子力システムの基礎研究をすべきである。原子炉開発史の初めには、様々なアイデアがあり試作もなされていた。現在の軽水炉が採用されたのはそれらが十分に比較検討された結果ではないことは既に述べた。
 また、最近でも世界的には、高温ガス炉、トリウム溶融塩炉、加速器駆動未臨界炉、小型のカプセル型炉など、次世代炉としていくつかの方式が提案されており、開発研究がなされてもいる。急いで実用に供すればまた欠陥があるまま使うことになるので、充分に基礎研究を行ってから実用化すべきであるが、これらの研究を続けることは科学者・技術者として当然行うべきことではないかと考える。自主、民主、公開の原則の下で行われるその研究成果を見た上で、電力源として原発を採用するかしないかは、市民が判断するという手順で行うべきである。しかし、その前に電力会社が原発は実は採算がとれないことに気がついて撤退するかもしれない。
 今後原発を利用しないとしても、安全原子力システムの研究とともに、不可欠なのは使用済燃料の処分方法の研究である。40年にわたる原発利用の結果、かなりの使用済燃料が既に蓄積されている。原発の利用を開始した時点では海洋の深いところに埋めるという案もあったが、国際的に海洋投棄が禁止されてから、トイレなきマンションといわれる状態が続いている。直接処分が経済的であるとされるが、人類の歴史と同じ程度の長期間にわたって安全に埋設することが可能であるとは思われない。学術会議はより良い方法が開発されたらそれを利用できるように、取り出し可能な形で地下に貯蔵すべきであると提言している。これは今の段階で現実的な案であると思われる。その上で、座して待っていてもよい処分方法がやってくる訳ではないので、よりよい処分方法についての基礎研究を早急に開始すべきである。
 長寿命の放射性物質の原子核を変換して短寿命化できれば何万年も先まで心配しなくてよくなる。埋設する場合の敷地面積も少なくできる。このため、核変換の経済性の点から高速中性子炉を利用する案や、安全性の点から加速器駆動システム(ADS)を利用する案が提案されている。日本では高速炉の案は「もんじゅ」の延命策として提案されているが、「もんじゅ」は欠陥製品なので、もし高速炉を利用するなら新設した方がよい。ADSはヨーロッパや中国では研究が進んでいるが、日本では長らく研究が軽視され、京都大学原子炉実験所で小規模な研究が始まっているとはいえ、肝心の日本最大の研究機関である日本原子力研究開発機構(JAEA)では「もんじゅ」優先のためか、これまで後回しになっていた。福島の事故後ようやくJAEAでも少しADSの研究費が認められるようになった。今後の研究の発展に期待したい。もちろん、これもすぐに実用化段階に進めるのではなく、十分に基礎研究を行ってから、市民の同意を得て実用化すべきである。
 一方、今後も原子力を利用するのであれば、ウランではなく原料としてトリウムを利用することを考えるべきである。トリウムを利用する燃料サイクルは使用済燃料中に長寿命の放射性物質が生成されにくいので、使用済燃料処分が容易になる。またトリウムサイクルでは核分裂性のウラン233を得る過程でウラン232が生じこの崩壊過程で強いガンマ線を出す物質が伴うので取り扱いにくく、また使用済燃料中にプルトニウムができにくい。これらの理由で現在原発に利用されているウラン・プルトニウムサイクルにくらべて核兵器製造には向かない燃料サイクルであるという利点もある。トリウムの多いインドでは将来的にはトリウムサイクルを採用すべく段階的に開発を進めている。欧米でもブルックヘブンの高橋博が提唱しノーベル賞受賞者であるルビアが推進しているトリウムサイクルによる加速器駆動未臨界炉の研究が進んでいる。日本には特にトリウムが多いわけではないが、世界的に偏在していないトリウムは資源確保面でもウランより有利であろう。トリウム溶融塩炉の試運転はかつて原子炉開発の初期に成功しているとはいえ、実用化には、まだ多くの解決すべき技術的課題があると考えられるので、基礎研究を着実に進めていくべきである。
 なお、トリウムサイクルの、特に溶融塩炉については古川和男が亡くなるまで主張し続けたが、古川はまず現在の政策を非難することから始めるので、原子力ムラでは異端視されていた。しかし、当初から原子力政策の中心にいた伊原義徳は、最近出版されたオーラルヒストリー「日本原子力政策史」のなかで、トリウムサイクルは研究を促進すべきものとして正当に評価している。
 単なるゴミ処理作業ではなく、こうした基礎研究は目的が重要であるだけではなく、それ自身学術的にも多くの課題解決を伴うものであるから、研究者にとっても魅力あるものとなる。基礎研究は、国益を越えて国際協力が可能なものであり、人類史的にも意義あると考える。
 また、そのような重要で魅力ある研究に取り組むことは今後の原子力関係の人材育成にとっても有益である。これから現役の人たちが引退し、若い人材が育っていなければ、今後の原発の安全運転にとってはもちろんのこと、直ちに原発を全廃すると決めた場合でも数十年以上かかる廃炉作業が不可能になることを考えると、人材の育成は重要である。これまでの失態の責任がある政治家、行政、電力会社、学者、マスメディアを非難するのはよいが、現場の原子力の研究者や技術者をバッシングすることにより、若い人材がいなくなる事態はさけるべきである。
 
 現実対応ばかりでは道を誤る。理想を掲げるだけでは現実が打開できぬ。理想を掲げることで、多少の回り道をしても引き返せないような道に陥ることだけは避け、現実に対処して少しずつ進めていくことが肝心である。その道はおそらく一つではない。多くの人の考え方に耳を傾けながら、自主、民主、公開の原則にたって今後の原子力の道を探ることが今こそ求められている。