新型コロナウィルス・・やはり見えてきた感染症ムラ2020年05月06日 12:26

東京電力福島第一発電所の事故では、原子力ムラの存在が人々の目に見えてきたが、今回の新型コロナウィルス感染症のパンデミックでは日本に感染症ムラがあるらしいことが見えてきた。
政府の専門家会議なるものはこの感染症ムラの有力者に支配されているような気が最初からしていたが、最近ますますそれが明確になってきている。
当初検査を制限したPCR検査に対する方針を決め、何ヶ月も経ってからその方針のまずさを認めないまま屁理屈をこねて実質方針変更せざるを得なくなったことを正当化する態度は、自分たちだけに通じる言葉で理屈をこねて自分たちの正しさを信じている高慢で閉鎖的なムラの生態そのものを示している。
実効再生産数についても、素人に説明しても分からないというばかりの姿勢で計算結果だけ示し、説明は今忙しくてする暇がないがその内にすると言いつつ、終息に向かっているかのように見せるなど自己中もいいところである。この実効再生産数に関しては「専門家ではない」山中伸弥教授が外国の論文を引用して大阪府などのデータを使って計算して見せており、感染症ムラの人間でなくても理解可能なものである。
山梨大学の島田眞路学長は専門家会議を痛烈に批判している。私は過激な批判をする気はないが、専門家達が、自分達が感染症ムラの論理にはまり込んでしまっていることに気がついて、国民の信頼を得るように望むのみである。

万葉集遣新羅使麻里布考2019年12月03日 16:39

万葉集巻15には天平8年の遣新羅使の和歌が多く掲載されている。そのなかに麻里布という場所が出てくるものがある。この麻里布は岩国の麻里布というのが通説であるが、実は田布施町南部の麻郷に麻里布(現在の地名は麻里府と書く)というところがあり、こちらが万葉集にある麻里布だという説がある。二つの説を検討してみよう。

 麻里布の歌の前には安芸の長門の浦の歌がある。この長門の浦は現在の倉橋島の南側の本浦(桂浜)とされる。麻里布の歌の後には大嶋の鳴門を過ぎて二日後の歌が追作として記されている。その後に熊毛の浦での歌があり、熊毛の浦では可良の浦であさりする鶴が鳴いていることが出てくる。室津半島の西側の尾国という場所に万葉の歌碑が建っているが、可良の浦が本当にそこであるかどうかは分からない。熊毛の浦の後に佐婆の海で風にあって豊前に流されたことが出てくる。佐婆は徳山か防府辺りであろうが、佐婆の海は周防灘である。
 航路をまとめると、倉橋島から麻里布を経て熊毛の浦に至った後、佐婆の海で風にあって豊後へ流れ着くということになる。麻里布の後で周防大島を通ったのであれば、通説のように麻里布は岩国ということになる。この場合は大嶋の鳴門を過ぎた後で南下して室津半島の先端(上関)に至りこの辺りを熊毛の浦とすることと辻褄が合う。
しかし、大嶋の鳴門の歌は二日後の追作であるから、麻里布に到着して安堵した後、大嶋の鳴門の強い流れを思い出して歌ったとも考えられる。この場合は倉橋島から直接周防大島方面に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を過ぎた後に麻里布に着いたことになる。このように考えると、麻里布を岩国ではなく、田布施町麻郷の麻里府とすることが可能で、この方がわざわざ一旦倉橋島から北上して岩国に寄り道するより海路としても自然である。
とはいえこの考えでは熊毛の浦が室津(上関町)付近だとする通説に従うと、麻里布へ行った後で熊毛の浦に後戻りすることになる。通説が信じられているのは、大嶋の鳴門を過ぎた後の海路は、南下して上関に至り室津半島を回って西に行くというのが、後世の標準的な海路であったからである。したがって通説では麻里布(岩国)、大嶋、熊毛(上関)の順となっている。
 しかし、実は古代の大島の西には柳井から新庄、余田、田布施を経て南へ抜ける別の海路があった。現在はこの海路は無く室津半島と柳井は陸続きになってしまっているが、この古柳井水道あるいは唐戸水道といわれる海路は古墳時代から平安時代頃までの重要な海路であった。この付近には熊毛王の墓といわれる前方後円墳がいくつかある。熊毛王はこの海路の海運を支配することで繁栄しヤマト政権も重視していた豪族であった。東の入り口には柳井市の茶臼山古墳がある。西の出口に近い現在の平生町の中心部は海であり、出口付近にある当時は島であった平生町の神花山古墳は女王の古墳として知られている。この水道の出口付近の平生町の対岸になるのが田布施町麻郷の麻里府である。
 麻里布の浦での歌には、粟島、可太の大嶋、祝島といった島の名前が出てくる。可太の大嶋は周防大島のことであるといわれているが、粟島は分からない。古柳井水道にある島々の中に粟島と呼ばれたものがあるのであろうか。祝島は上関町西南部にある島であるから、田布施の麻里府からは南西に望むことができるが、岩国の麻里布からは望むことはできない。岩国に停泊中に祝島のことを歌うのは不自然である。
 安芸の長門の浦(倉橋島)を出発した後、周防大島に向かい大嶋の鳴門(大畠の瀬戸)を抜けて、古柳井水道(唐戸水道、唐戸の瀬戸)を通って、田布施町の麻里府に至り、大嶋を思い出したり祝島を遠くから眺めたりしたと考えるのが自然である。
 なお、山口県東部の瀬戸内側は上述のように古代熊毛王の支配地で、古代には熊毛郡といわれた。天平8年の遣新羅使の10年あまり前に熊毛郡の東部が分かれて玖珂郡となったとされる。万葉集に玖珂の麻里布とあるので、岩国の麻里布と考えるのはもっともであるが、郡の名ではなく地名としての玖珂はそれ以前からあったであろうし、その地域も漠然としていた可能性があるので、田布施町の麻里府を玖珂の麻里布と呼んだこともありうることである。実際、郡としての玖珂郡と熊毛郡の境界はその後も動いている。
麻里布を田布施町麻郷の麻里府とすると、その後で立ち寄る熊毛の浦はどこになるのであろうか。室津半島(上関)に戻るのは不自然である。田布施町の麻里府から海岸伝いに西に行くと、祝島の真北にあたるところに現在の光市の室積港があり良港である。室積は徳川時代に北前船の寄港地として栄え、室積村は明治期に熊毛郡の郡役所があった地でもある。麻里布が田布施町の麻里府とした場合、この室積が麻里布の後に停泊した熊毛の浦とするのが自然である。遣新羅使はその後、室積から佐婆といわれる徳山あるいは防府の辺りに行こうとして、あるいは行った後に、周防灘(佐婆海中)で大風にあったのであろう。可良の浦に当たる場所が室積の近くに見つかれば面白いのだが。

中央の歴史学者や万葉学者は通説である倉橋島(長門の浦)―岩国(麻里布)―上関(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路を主張する。
一方、地元の柳井の歴史家達は倉橋島(長門の浦)―田布施町麻里府(麻里布)―室積(熊毛の浦)―周防灘(佐婆海中)という経路であると主張している。

私は山口県の出身ではないが、いま柳井に住まいして近隣を散策して考えを巡らせていると、万葉集巻15の遣新羅使の歌にある麻里布は田布施町麻郷の麻里府であるという説の方に説得力があるように思われてくる。

歴史問題2019年09月11日 17:49

 日本では8世紀に書かれた「日本書紀」で神武天皇の即位が紀元前660年ということになっているが、朝鮮半島では13世紀に書かれた「三国遺事」で壇君王建が紀元前2333年に朝鮮国を建国したことになっている。これは神話ではあるが、韓国の歴史では、この朝鮮国を「古朝鮮」として後に中国の漢帝国(武帝)に滅ぼされるまで続いた国と考えられている。
 実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
 その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
 やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
 唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
 やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
 やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
 李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
 弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
 近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
 太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
 周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。

異文化との間合いー吉本問題2019年07月24日 17:13

 吉本興業の在り方を巡って毎日のように侃々諤々議論されている。話の発端は吉本興業に所属する芸人が詐欺グループの会合に呼ばれた数年前の出来事が週刊誌に暴露されたことである。直ぐに嘘の言い訳をした当事者が、やっぱり本当のことを言いたいと思い直したのを吉本興行側が静観を続けようと止めさせた。しかしどうしても会見したいと記者会見した所、反響が大きく、やむなく有力芸人のすすめに従って社長が記者会見をしたところ、記者達にとっては要領を得られない結果となり、ますます批判の声が大きくなる。別の有力芸人が社長・会長が辞任しないなら自分が辞めると直談判するも話は平行線になっている。こうした事態に関係者や関係ない人達が連日話題にしているというものである。
 二つの会見をよく見たわけではないが、テレビ報道で見る限り、私には両方セットで吉本の喜劇を見ているようであった。この喜劇には基本的に大阪の文化の特徴が表れている。それに対して、大阪圏にいない人達は違和感を持ったという構図が明らかである。たとえが適当でないかもしれないが、大阪以外のほとんどがゲルマン系文化圏だとすれば、大阪は唯一ラテン系の文化圏であるといっていい。京都や神戸は大阪とは異なるが、彼等は大阪との付き合い方を知っている。しかし、他の地方の人達には大阪が理解不能な時がある。言葉や言い回し方が異なるので、いわゆる標準語に翻訳しても感情が通じない。ほとんどの大阪人にとっていわゆる標準語は外国語である。こんな時どうすれば良いのか。
 大阪吉本は全国制覇など目指すべきではない。なかには全国に通じる力量の芸人も出るだろうが、多くのゲルマン系文化圏の人にとっては大阪の芸人は動物園の檻の中にいる珍しい南洋の動物を見るようなものでしかない。したがって、大阪吉本は大阪の人達に通じる文化を磨けばいいのだ。一方、東京吉本は完全に別の企業として、ラテン系の経営体質から脱却して出直すべきである。
 文化の問題として、多数派のゲルマン系は少数派のラテン系を同化したり殲滅したりしようとしてはならないし、ラテン系もゲルマン系を軽蔑してはならない。

皇統の考え方2019年07月10日 17:56

 アフリカから出たホモ・サピエンスが日本列島に来たのは数万年前とされる石器時代後期である(第1期移住)。その頃は寒くて北海道は大陸と陸続きで、朝鮮半島と日本列島の間の海も狭く渡るのに困難はなかった。南からは島伝いにやって来たと考えられる。最近丸木舟で当時は中国大陸と陸続きであった台湾から与那国島へ渡るという国立科学博物館の実験が成功した。列島の沖は太平洋でこれより先はないから、列島に来た人達はいわば吹きだまりに集まったようなもので、逃げようもなく、列島はいろいろな方面からいろいろな時期に来た人達の「るつぼ」となるように運命づけられていた。やがて1万4千年前、温暖期を迎えると、海面が上昇して大陸からの移住は困難になる。列島の人達は新石器時代を迎え、縄文人となる。
 ユーラシア大陸では1万2千年前に一時的な寒の戻りがあり、野生の穀物が採れなくなった人達が農耕を始め、いわゆる4大文明が興る。ただし、日本列島はその後も縄文時代が続く。中国大陸では9000年前に黄河流域で畑作(アワ)が、8000年前に長江流域で水稲耕作が始まる。しかし、4000年前にやや冷涼化した時期があり、長江の水稲耕作は衰え、黄河文明が優勢となって、夏王朝ができる。この文明化から逃れようとした人達が海のルートを開拓し、日本列島へ移住したといわれる。縄文後期の移住で、後の列島各地の海民の先祖ともいわれる(第2期移住)。
 水稲耕作は5千年前には長江流域から山東半島に伝わり、朝鮮半島南部には3100年前(紀元前1100年)に伝わったとされる。この頃商(殷)王朝ができる。殷は黄河下流の山東省を基盤とするが、やがて西方から周が興り、3050年前に殷が滅ぶ。殷の遺民の一部は朝鮮半島に逃れる。この頃(紀元前950年頃)水稲耕作が、朝鮮半島南部あるいは前に開拓された海のルートで山東半島から、玄界灘沿岸に伝播してきたと考えられている。その後数百年かけて列島全体に水稲耕作が広がっていく。水稲耕作を持ち込んだ人達は(第3期移住)縄文人とは顔つきが異なる人達で、やがて縄文人とも交流して、弥生人(倭人)となる。この時、縄文人と新たな移住者の間で戦争はなかったようである。
 倭人となってからは多くの国ができて互いに戦争するようになるが、大乱後に共立された卑弥呼の例や、神話の大国主神の国譲りのように、矛盾を抱えながらも共存する形が多い。また辺境では平安時代初期まで倭人化してない人達との戦いもあるが、これも徹底的ではない。
 殷には神話があったが、周には神話はなく、革命思想で王朝の交代を正当化した。以後中国では革命により王朝が交代することになる。
 日本列島では倭人の国が分かれていた頃の最大の国は北九州の伊都国であるが、卑弥呼が共立された頃から纏向地域の前方後円墳を造る政権が樹立される。彼等は出雲系であった可能性があるが、4世紀になると天孫系王朝に交代する。崇神天皇の頃である。出雲系から天孫系への国譲りはこの時であったと考えられる。崇神王朝は仲哀天皇の頃までで、4世紀末の応神天皇の頃からいわゆる倭の五王の時代は応神王朝というべき王朝になる。応神天皇の母は仲哀天皇の皇后である神功皇后であるが、父が仲哀天皇であるかどうかは疑問とされる。さらに倭の五王の最後である雄略天皇の男系血統が絶える6世紀には、応神天皇5世の孫と称して継体天皇が豪族によって擁立される。応神王朝から継体王朝への交代である。
 神武天皇を実在の天皇とするのは論外であるが、実在の天皇の最初といわれる崇神天皇から見ても、倭国にはその前に出雲系王朝があり、その後も応神王朝、継体王朝と王朝が交代している。その後も蘇我氏の時代や、天智天皇、天武天皇の時代には王朝交代といっても良いような事件が起こっている。日本書紀、古事記は天武天皇が編纂を命じたとされるが、この史書においては王朝の交代は見られず、神話時代から始まって天照大神の子孫が神武以来の天皇になったことになっている。
 おそらく実質的な王朝の交代はあったとしても縄文時代以来、この列島では支配者の交代にあたって革命的な手法を採らず、矛盾を抱えたまま共存することが続いた。それはおそらく大陸と異なり、負けた側が外に逃げ出すことが地理的に困難であったことと、中国や朝鮮半島の国際情勢のために、国内だけで革命に至るまで戦争をしていることが許されなかったためであろう。やがて天皇を政権の担当者から外す工夫をすることによって、さらに革命の起こらない国とした。この状況は明治維新までも続く。太平洋戦争の敗北は天皇制にとって最大の危機であったが、危うく難を逃れた。
 万世一系の男系男子という伝統は天武時代に創られたフィクションである。とすれば、現在の我々はフィクションにこだわることなく、女性天皇や女系天皇も認めるか、あくまで男系にこだわって、男系女性天皇にする以外に方法がなくなったときにはその夫または後継者を遠い先祖が天皇であったというフィクションを作るほかないであろう。

安倍首相の下での皇統の維持策は旧皇族の復活か?2019年05月06日 15:59

 嫡出の男系男子に限るとする現在の制度ではいずれ天皇の後継者はいなくなる。過去の天皇の半数は嫡出子ではないといわれるものの、嫡出子でなくても良いと側室制度を復活することは現在の国民感情となじまない。とすると男系男子の条件を外すか、過去の皇族を復活するしかない。
 いまどき男性に限るのはおかしいというのが多くの国民の意見であろう。過去に女性天皇もいたので、女性が皇位につくことには反対は少ないと考えられる。ただし、女系の天皇はいなかったとする人達は男系にこだわる。
 過去の皇族を復活させるということに関しては、武烈天皇に後継者が無かったため、応神天皇の五世の孫であるとして継体天皇を即位させた先例がある。もっとも、当時は天皇の子孫は、後世の歴史書は〇〇王と記されていて、皇族と見なされていたので、臣下から皇族への「復活」ということではない。
 継体天皇の時は、実際には王朝が断絶したのだという説もあるが、大和政権以外の勢力が大和政権を打倒して新政権を打ち立てたのではなく、大和政権の有力者が皇統を継続させるために考えた策である。天皇の後ろ楯となる有力者としてそれ以前は葛城氏がいたが、継体天皇即位後は葛城氏のもとにいた蘇我氏が最有力者として現れるようになるという、有力者間の力関係の変化はあるものの、磐井の乱を鎮圧するなどして政権は安定化し、継体天皇の皇統は現在まで1500年続く。
 また平安時代には、いったん臣籍降下していたが周囲の有力者の思惑から再び皇族となり皇位を継いだ宇多天皇の例もある。これら「復活」の例に限らず、天皇の即位に関しては時の政治的実力者の意向によって後継者が決まる場合が多い。壬申の乱や保元平治の乱のように戦乱になった場合もあるが、多くは豪族、貴族、幕府などの意向によって決まっていった。
 現在では国民主権であるから国民の総意で決めればいいということかも知れないが、やはり実際には国民の代表者である時の政権や政権に近い有力者の考えで決まるのであろう。安倍首相は官房長官時代に皇室典範を変えれば壬申の乱のようになると当時の小泉首相に言ったと伝えられるが、テロを起こすような人達がいるということなのであろうか。その安倍晋三氏が今は首相である。皇室典範は変えず、過去の天皇の五世の孫までの旧皇族の復活が結論となるであろう。

規範守らぬ西野監督?2018年06月30日 17:31

 朝日新聞の忠鉢信一氏はサッカーW杯でポーランドと日本の戦いの後半のパス回しについて、「規範」守らぬ西野監督と批判している。
 忠鉢氏は「規範」として、「JFAサッカー行動規範」の「1 最善の努力 どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽くしてプレーする」と、国際サッカー連盟(FIFA)「フットボール行動規範」の「1 勝つためにプレーする 勝利はあらゆる試合のプレーする目的です。負けを目指してはいけません。もしも勝つためにプレーしないのならば、あなたは相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをついています。強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい」を挙げている。
 これらの「規範」は主として選手に対する行動規範のように見えるが、選手は自ら戦おうとしなかったわけではなく、監督の指示にしたがったのであろうから、これを責めるのは酷であろう。責めは監督にある。
 もちろん「規範」は監督にも求められるであろう。では監督は「規範」を守らなかったといえるか。「規範」は個々の試合の個人の規範を説いているようであるが、W杯のような場合、監督にとっての「勝つためのプレー」とは、少しでも上に進み、できれば優勝するということであろう。西野監督はそのための全力を尽くしたのではないか。勝負師として見事という見方もあるが、一か八かに賭けるというような博打をしたのではないと思う。現に戦っている選手達の状態を見極め、同時進行中のコロンビアとセネガルの試合ぶりの情報も考慮して、上に進むという監督の任務として最善の選択を行ったのであろう。賞金が多いことを考慮するサッカーくじなどの博打と同列に扱うのはおかしい。
 そもそも、サッカーを見ていていつも感じるのは、サッカーは格闘技だということである。したがって「規範」が述べるように全力を尽くせばラフプレーになりがちで、それがサッカーなのだろうと格闘技が嫌いな自分は感じる。あまり酷ければ、ペナルティーや退場が命ぜられるので十分ではないか。それなのに、これにフェアプレーという名の別の規準をとりいれてリーグ戦の順位を決めることに矛盾がある。得失点差が同じならくじ引きにしておけばよかったのだ。ルールに従った監督や選手をフェアでないようにいうのはおかしい。
 忠鉢氏は批判する相手を間違えている。

トランプ批判の筋違い?2018年06月13日 15:43

 6月12日の米朝会談の結果に対する、多くのトランプ批判がなされている。しかし、それらは批判している人達の政治的信条に基づく批判であって、トランプ大統領の信条に基づく行動として会談がうまくいったかどうかを論じているものではないように見える。
 トランプ大統領は大統領選挙前から、アメリカ・ファーストを唱え、経済的に貿易収支の赤字に不満を述べ、軍事的にもアメリカが世界の警察として軍事費を出費することに反対してきた。可能な限り海外に駐留する軍隊を撤退させたいのが本音である。しかし単に金がないからすごすご引き上げるという無様な様は見せたくない。平和を確立したから撤兵するという形で、本音とする軍事費を減らしたい。
 この意味でトランプ大統領は今回の会談は成功だと思っているであろう。金正恩もトランプを譲歩させたと喜んでいる(署名が終わったときの金正恩は、よくぞここまで来たと、感極まっているようにも見えた)と思われる。恩を着せられた金正恩は事態をご破算にしないために(トランプが心変わりしないうちに)アメリカに到達するミサイルは破棄しても良いと思うであろう。アメリカ・ファーストのトランプにとっては軍事的にはそれだけで十分なのである。
 多くの政治家や評論家がこれまでのパラダイムのなかで批判してみても、意味が無い。トランプの行動はパラダイムを変えようとしているのである。その変化のなかで、事態にどう対応するかを考えるのが政治家や評論家の役目なのではないか?
 朝鮮半島は中国の影響下に入り、日本は中国との関係では、かろうじて独立を保ちつつ対峙するという、古代の東アジアの地政学的関係と同じようになる可能性がある。また、日本とアメリカの関係は、かつての琉球王国と日本との関係と似た形になるのかもしれない。

iPS細胞論文不正2018年01月24日 15:34

 京大iPS細胞研究所で論文不正があったことが明らかになった。起こるべくして起こった感がある。
 急激に成長する分野、競争の激しい分野では、不正行為は必ずといっていいほど起こると考えておく必要がある。山中所長をはじめ責任ある人達は当然そのことは想定して気をつけていたのであろうが、対策は万全とは行かなかったようである。ただ、iPS細胞研究所が置かれていた環境は対策を採ろうとしても相当に厳しいものであったように見受けられる。
 世の中に市場原理主義がまかり通り、企業経営者達が、大学のマネジメントに対して会社ではこんなやり方は通用しないなどという批判をして、大学のマネジメントを営利会社のようにするのが良いという風潮を作ってきた。とりわけ法人化以後の大学は毎年運営交付金を削減され、人員も研究費も減少していった。研究費に関しては、いわゆる競争的資金を獲得することでそれを補うように仕向けられてきた。人員については、競争的経費を獲得できた研究室ではその経費で、その資金がある年度限りの任期付きのポストを作って、若手研究者を雇うようなった。米国等でも試験的任用した後、特に問題が無ければ任期なしのポストに移れるという採用の仕方はあるが、日本で現在はびこっているのはこれとは似て非なるもので、期限が来れば財源がなくなるので、当人に問題が有る無しに関わらず、失職することになる。
 iPS細胞研究所は、大学が公表しているデータによると、約80億円の年間執行予算の内、9割が競争的資金や寄付などの外部からの資金によるもので、基盤的運営費は1割に満たないようである。他分野から見れば、iPSという日の当たる分野ならではの、羨ましいほどの外部資金を得ていることになるが、逆に言えば、それで任期付きの研究員を雇わなければ成り立たない研究所ということで、実際に職員の9割は任期付きのポストに就いているという。この状況で、将来に不安を抱く彼らが高い倫理観を持つことは、かなり困難であろう。
 山中教授が高い使命感で、iPS細胞による医療の実用化を目指していることは疑うべくもないが、今の大学の置かれている環境では大規模な実用化研究は無理である。
 ノーベル賞を受賞するまでの山中教授の研究は基礎研究であり、大学での研究にふさわしかった。しかし実用化研究レベルになると、理研など旧科学技術庁系の研究所あるいは厚労省の研究所で行い、さらに民間企業の研究へと移行すべきであろう。それにしても大学の基盤となる運営交付金の減少は、日の当たらない分野では、さらに深刻な状況になっている。政府は抜本的な制度改革を行う必要がある。文科省は大学に対して運営交付金は十分に確保して、そのうえで競争的経費を優れた研究者に配分するようにすべきである。
 身分が安定して競争がないと、怠惰になる者が出てきて研究の生産性が落ちるリスクがある。身分が不安定な環境で競わせると、研究の生産性は上がるが、取り返しのつかない信用失墜が発生するリスクがある。どちらが良いのか。首は切らずに良い成果が得られた研究者に研究費をプラスするという資金の使い方にすべきではないか。
 学問は生活のためにやるのではない代わりに好奇心が必要で、好奇心がある者が怠惰になるリスクは少ない。好奇心をなくす者もいるであろうが、そういう者を身分不安定な競争的環境に入れても学問をするとは限らず、邪なことを思いつくのみであろう。不祥事を起こすより何もしない方がましであるから、マネジメントとしては全体の歩留まりをほどよいところにおいて対処すべきか。

自由と民主—象徴天皇の在り方2017年07月04日 18:42

 日本における、いわば「非文明」の時代であった、縄文式土器の時代は約1万年間続いた。この時代の人が精神的に安定していたのかどうかまではよくわからないが、自然と折り合って生きていたのであろう。やがて農耕文明の影響を受けた弥生式土器の時代になると、人々は文明生活にとって不都合な自然を克服しようとするようになる。集団社会を創り、周囲に外敵から守るための環濠を築くなどした中に住み、国の始まりが見られるようになる。そのリーダーは一般民とは別の特別の墓に埋葬されるようになる。「文明」の始まりは格差社会の始まりでもある。
 こうして文明社会ができるが、「文明」が進んでも克服しきれない自然の力に遭遇し、これと折り合うことができず挫折すると、これに対処して心の安定を得るために神の助けを借り、宗教が生まれたのではないだろうか。さらに近代になって、科学技術が発達し自然の克服が進むと、神の必要性は減り、無神論者も現れてくる。
 しかし所詮科学技術には限界があるので、近代人も宗教が捨てきれない。エーリッヒ・フロムは社会心理学的な観点から自由からの逃走を説いたが、自由に生きることを得ようとする文明人も神なしにいられないことを自覚せざるを得ないという現実が文明社会の根本にあるのではないだろうか。
 神風なんか吹かないことが明白になった敗戦後の日本で、私は、これから人々はもっと科学的で合理的なものの考え方をするだろうから、神や仏を信じる人は減るのではないかと思った。しかし、どれだけ宗教心があるかどうかは分からないが、若い人達の間でも神社仏閣詣でが盛んである。それどころか明らかに非科学的な預言にさえのめり込む。
 フロムは権威から自由になった人間が孤独と不安から逆に絶対的な権威を求め自由を捨てるというが、この循環をフロムがいうように愛とか創造的仕事とかだけで本当に解決できるだろうか。むしろ神を必要とする人が多数なのだと諦観して、人の数だけある様々な神と折り合って生きる知恵を持つべきではないだろうか。
 フロムは自由な社会であったはずのワイマール共和国で人々がヒトラーのファシズムへと逃走したと論ずるが、日本には天皇という権威がある。律令国家を創った天智・天武の頃の天皇は政治的な絶対権力者であったが、やがて貴族が政治権力を握り、幼少な天皇でも務まるようになる。さらに武士が武力を背景に政治権力を握るようになると、天皇はいっそう権力から遠ざかり、文化的な権威になっていく。決定的だったのは承久の変で、権力を武士から奪取しようとした後鳥羽上皇が敗北し、政治的権力は剥奪されてしまう。このため後醍醐天皇の一時期を例外として、天皇は政治権力から敵対されることは無く、天皇家が滅ぶことを免れた。
 明治維新政府は天皇を政治利用するが、天皇の独裁が認められたわけではなく、元老達が権力を握っていた。伊藤博文が皇太子に生まれることは最大の不幸であるといったのは、その間の実情を物語るものであろう。ワイマールからヒトラーのファシズムになるのと呼応するように、大正デモクラシーから昭和になると神聖化された天皇の統帥権を振りかざした軍部が独走して戦争に突き進むが、破綻して敗戦を迎える。天皇は再び人となり、政治権力から離れて国民の象徴となる。
 キリスト教世界では法皇や教会のような宗教的権威が残っているが、日本にはそのような宗教的権威はない。しかし、自由で民主的な国になった日本の人々にとって、象徴天皇制は一種の神というか宗教的権威なのかもしれないとも思う。
 とりわけ現在の社会状況は自由で民主的であるはずの社会の矛盾が続出し、何か全ての人々が納得する権力か権威を求めているのではないかと思われ、ヒトラーのような絶対的権力は望まない人々が、象徴としての天皇の存在をより意識するようになったのではないか。だとすると、敗戦直後に天皇の政治権力を剥奪するために象徴天皇としたという事情とは別に、今の時代の象徴天皇というものの意義をよく考えるべきであろう。おそらく敗戦後に皇太子となった今上天皇は誰よりも自分のこととして、象徴天皇の在り方を考え続けてきたのであろうと推察されるので、その考えを尊重しつつ、国民一人一人が象徴天皇像を構築していかなければならない。