歴史問題2019年09月11日 17:49

 日本では8世紀に書かれた「日本書紀」で神武天皇の即位が紀元前660年ということになっているが、朝鮮半島では13世紀に書かれた「三国遺事」で壇君王建が紀元前2333年に朝鮮国を建国したことになっている。これは神話ではあるが、韓国の歴史では、この朝鮮国を「古朝鮮」として後に中国の漢帝国(武帝)に滅ぼされるまで続いた国と考えられている。
 実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
 その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
 やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
 唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
 やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
 やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
 李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
 弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
 近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
 太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
 周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。

異文化との間合いー吉本問題2019年07月24日 17:13

 吉本興業の在り方を巡って毎日のように侃々諤々議論されている。話の発端は吉本興業に所属する芸人が詐欺グループの会合に呼ばれた数年前の出来事が週刊誌に暴露されたことである。直ぐに嘘の言い訳をした当事者が、やっぱり本当のことを言いたいと思い直したのを吉本興行側が静観を続けようと止めさせた。しかしどうしても会見したいと記者会見した所、反響が大きく、やむなく有力芸人のすすめに従って社長が記者会見をしたところ、記者達にとっては要領を得られない結果となり、ますます批判の声が大きくなる。別の有力芸人が社長・会長が辞任しないなら自分が辞めると直談判するも話は平行線になっている。こうした事態に関係者や関係ない人達が連日話題にしているというものである。
 二つの会見をよく見たわけではないが、テレビ報道で見る限り、私には両方セットで吉本の喜劇を見ているようであった。この喜劇には基本的に大阪の文化の特徴が表れている。それに対して、大阪圏にいない人達は違和感を持ったという構図が明らかである。たとえが適当でないかもしれないが、大阪以外のほとんどがゲルマン系文化圏だとすれば、大阪は唯一ラテン系の文化圏であるといっていい。京都や神戸は大阪とは異なるが、彼等は大阪との付き合い方を知っている。しかし、他の地方の人達には大阪が理解不能な時がある。言葉や言い回し方が異なるので、いわゆる標準語に翻訳しても感情が通じない。ほとんどの大阪人にとっていわゆる標準語は外国語である。こんな時どうすれば良いのか。
 大阪吉本は全国制覇など目指すべきではない。なかには全国に通じる力量の芸人も出るだろうが、多くのゲルマン系文化圏の人にとっては大阪の芸人は動物園の檻の中にいる珍しい南洋の動物を見るようなものでしかない。したがって、大阪吉本は大阪の人達に通じる文化を磨けばいいのだ。一方、東京吉本は完全に別の企業として、ラテン系の経営体質から脱却して出直すべきである。
 文化の問題として、多数派のゲルマン系は少数派のラテン系を同化したり殲滅したりしようとしてはならないし、ラテン系もゲルマン系を軽蔑してはならない。

皇統の考え方2019年07月10日 17:56

 アフリカから出たホモ・サピエンスが日本列島に来たのは数万年前とされる石器時代後期である(第1期移住)。その頃は寒くて北海道は大陸と陸続きで、朝鮮半島と日本列島の間の海も狭く渡るのに困難はなかった。南からは島伝いにやって来たと考えられる。最近丸木舟で当時は中国大陸と陸続きであった台湾から与那国島へ渡るという国立科学博物館の実験が成功した。列島の沖は太平洋でこれより先はないから、列島に来た人達はいわば吹きだまりに集まったようなもので、逃げようもなく、列島はいろいろな方面からいろいろな時期に来た人達の「るつぼ」となるように運命づけられていた。やがて1万4千年前、温暖期を迎えると、海面が上昇して大陸からの移住は困難になる。列島の人達は新石器時代を迎え、縄文人となる。
 ユーラシア大陸では1万2千年前に一時的な寒の戻りがあり、野生の穀物が採れなくなった人達が農耕を始め、いわゆる4大文明が興る。ただし、日本列島はその後も縄文時代が続く。中国大陸では9000年前に黄河流域で畑作(アワ)が、8000年前に長江流域で水稲耕作が始まる。しかし、4000年前にやや冷涼化した時期があり、長江の水稲耕作は衰え、黄河文明が優勢となって、夏王朝ができる。この文明化から逃れようとした人達が海のルートを開拓し、日本列島へ移住したといわれる。縄文後期の移住で、後の列島各地の海民の先祖ともいわれる(第2期移住)。
 水稲耕作は5千年前には長江流域から山東半島に伝わり、朝鮮半島南部には3100年前(紀元前1100年)に伝わったとされる。この頃商(殷)王朝ができる。殷は黄河下流の山東省を基盤とするが、やがて西方から周が興り、3050年前に殷が滅ぶ。殷の遺民の一部は朝鮮半島に逃れる。この頃(紀元前950年頃)水稲耕作が、朝鮮半島南部あるいは前に開拓された海のルートで山東半島から、玄界灘沿岸に伝播してきたと考えられている。その後数百年かけて列島全体に水稲耕作が広がっていく。水稲耕作を持ち込んだ人達は(第3期移住)縄文人とは顔つきが異なる人達で、やがて縄文人とも交流して、弥生人(倭人)となる。この時、縄文人と新たな移住者の間で戦争はなかったようである。
 倭人となってからは多くの国ができて互いに戦争するようになるが、大乱後に共立された卑弥呼の例や、神話の大国主神の国譲りのように、矛盾を抱えながらも共存する形が多い。また辺境では平安時代初期まで倭人化してない人達との戦いもあるが、これも徹底的ではない。
 殷には神話があったが、周には神話はなく、革命思想で王朝の交代を正当化した。以後中国では革命により王朝が交代することになる。
 日本列島では倭人の国が分かれていた頃の最大の国は北九州の伊都国であるが、卑弥呼が共立された頃から纏向地域の前方後円墳を造る政権が樹立される。彼等は出雲系であった可能性があるが、4世紀になると天孫系王朝に交代する。崇神天皇の頃である。出雲系から天孫系への国譲りはこの時であったと考えられる。崇神王朝は仲哀天皇の頃までで、4世紀末の応神天皇の頃からいわゆる倭の五王の時代は応神王朝というべき王朝になる。応神天皇の母は仲哀天皇の皇后である神功皇后であるが、父が仲哀天皇であるかどうかは疑問とされる。さらに倭の五王の最後である雄略天皇の男系血統が絶える6世紀には、応神天皇5世の孫と称して継体天皇が豪族によって擁立される。応神王朝から継体王朝への交代である。
 神武天皇を実在の天皇とするのは論外であるが、実在の天皇の最初といわれる崇神天皇から見ても、倭国にはその前に出雲系王朝があり、その後も応神王朝、継体王朝と王朝が交代している。その後も蘇我氏の時代や、天智天皇、天武天皇の時代には王朝交代といっても良いような事件が起こっている。日本書紀、古事記は天武天皇が編纂を命じたとされるが、この史書においては王朝の交代は見られず、神話時代から始まって天照大神の子孫が神武以来の天皇になったことになっている。
 おそらく実質的な王朝の交代はあったとしても縄文時代以来、この列島では支配者の交代にあたって革命的な手法を採らず、矛盾を抱えたまま共存することが続いた。それはおそらく大陸と異なり、負けた側が外に逃げ出すことが地理的に困難であったことと、中国や朝鮮半島の国際情勢のために、国内だけで革命に至るまで戦争をしていることが許されなかったためであろう。やがて天皇を政権の担当者から外す工夫をすることによって、さらに革命の起こらない国とした。この状況は明治維新までも続く。太平洋戦争の敗北は天皇制にとって最大の危機であったが、危うく難を逃れた。
 万世一系の男系男子という伝統は天武時代に創られたフィクションである。とすれば、現在の我々はフィクションにこだわることなく、女性天皇や女系天皇も認めるか、あくまで男系にこだわって、男系女性天皇にする以外に方法がなくなったときにはその夫または後継者を遠い先祖が天皇であったというフィクションを作るほかないであろう。

安倍首相の下での皇統の維持策は旧皇族の復活か?2019年05月06日 15:59

 嫡出の男系男子に限るとする現在の制度ではいずれ天皇の後継者はいなくなる。過去の天皇の半数は嫡出子ではないといわれるものの、嫡出子でなくても良いと側室制度を復活することは現在の国民感情となじまない。とすると男系男子の条件を外すか、過去の皇族を復活するしかない。
 いまどき男性に限るのはおかしいというのが多くの国民の意見であろう。過去に女性天皇もいたので、女性が皇位につくことには反対は少ないと考えられる。ただし、女系の天皇はいなかったとする人達は男系にこだわる。
 過去の皇族を復活させるということに関しては、武烈天皇に後継者が無かったため、応神天皇の五世の孫であるとして継体天皇を即位させた先例がある。もっとも、当時は天皇の子孫は、後世の歴史書は〇〇王と記されていて、皇族と見なされていたので、臣下から皇族への「復活」ということではない。
 継体天皇の時は、実際には王朝が断絶したのだという説もあるが、大和政権以外の勢力が大和政権を打倒して新政権を打ち立てたのではなく、大和政権の有力者が皇統を継続させるために考えた策である。天皇の後ろ楯となる有力者としてそれ以前は葛城氏がいたが、継体天皇即位後は葛城氏のもとにいた蘇我氏が最有力者として現れるようになるという、有力者間の力関係の変化はあるものの、磐井の乱を鎮圧するなどして政権は安定化し、継体天皇の皇統は現在まで1500年続く。
 また平安時代には、いったん臣籍降下していたが周囲の有力者の思惑から再び皇族となり皇位を継いだ宇多天皇の例もある。これら「復活」の例に限らず、天皇の即位に関しては時の政治的実力者の意向によって後継者が決まる場合が多い。壬申の乱や保元平治の乱のように戦乱になった場合もあるが、多くは豪族、貴族、幕府などの意向によって決まっていった。
 現在では国民主権であるから国民の総意で決めればいいということかも知れないが、やはり実際には国民の代表者である時の政権や政権に近い有力者の考えで決まるのであろう。安倍首相は官房長官時代に皇室典範を変えれば壬申の乱のようになると当時の小泉首相に言ったと伝えられるが、テロを起こすような人達がいるということなのであろうか。その安倍晋三氏が今は首相である。皇室典範は変えず、過去の天皇の五世の孫までの旧皇族の復活が結論となるであろう。

規範守らぬ西野監督?2018年06月30日 17:31

 朝日新聞の忠鉢信一氏はサッカーW杯でポーランドと日本の戦いの後半のパス回しについて、「規範」守らぬ西野監督と批判している。
 忠鉢氏は「規範」として、「JFAサッカー行動規範」の「1 最善の努力 どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽くしてプレーする」と、国際サッカー連盟(FIFA)「フットボール行動規範」の「1 勝つためにプレーする 勝利はあらゆる試合のプレーする目的です。負けを目指してはいけません。もしも勝つためにプレーしないのならば、あなたは相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをついています。強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい」を挙げている。
 これらの「規範」は主として選手に対する行動規範のように見えるが、選手は自ら戦おうとしなかったわけではなく、監督の指示にしたがったのであろうから、これを責めるのは酷であろう。責めは監督にある。
 もちろん「規範」は監督にも求められるであろう。では監督は「規範」を守らなかったといえるか。「規範」は個々の試合の個人の規範を説いているようであるが、W杯のような場合、監督にとっての「勝つためのプレー」とは、少しでも上に進み、できれば優勝するということであろう。西野監督はそのための全力を尽くしたのではないか。勝負師として見事という見方もあるが、一か八かに賭けるというような博打をしたのではないと思う。現に戦っている選手達の状態を見極め、同時進行中のコロンビアとセネガルの試合ぶりの情報も考慮して、上に進むという監督の任務として最善の選択を行ったのであろう。賞金が多いことを考慮するサッカーくじなどの博打と同列に扱うのはおかしい。
 そもそも、サッカーを見ていていつも感じるのは、サッカーは格闘技だということである。したがって「規範」が述べるように全力を尽くせばラフプレーになりがちで、それがサッカーなのだろうと格闘技が嫌いな自分は感じる。あまり酷ければ、ペナルティーや退場が命ぜられるので十分ではないか。それなのに、これにフェアプレーという名の別の規準をとりいれてリーグ戦の順位を決めることに矛盾がある。得失点差が同じならくじ引きにしておけばよかったのだ。ルールに従った監督や選手をフェアでないようにいうのはおかしい。
 忠鉢氏は批判する相手を間違えている。

トランプ批判の筋違い?2018年06月13日 15:43

 6月12日の米朝会談の結果に対する、多くのトランプ批判がなされている。しかし、それらは批判している人達の政治的信条に基づく批判であって、トランプ大統領の信条に基づく行動として会談がうまくいったかどうかを論じているものではないように見える。
 トランプ大統領は大統領選挙前から、アメリカ・ファーストを唱え、経済的に貿易収支の赤字に不満を述べ、軍事的にもアメリカが世界の警察として軍事費を出費することに反対してきた。可能な限り海外に駐留する軍隊を撤退させたいのが本音である。しかし単に金がないからすごすご引き上げるという無様な様は見せたくない。平和を確立したから撤兵するという形で、本音とする軍事費を減らしたい。
 この意味でトランプ大統領は今回の会談は成功だと思っているであろう。金正恩もトランプを譲歩させたと喜んでいる(署名が終わったときの金正恩は、よくぞここまで来たと、感極まっているようにも見えた)と思われる。恩を着せられた金正恩は事態をご破算にしないために(トランプが心変わりしないうちに)アメリカに到達するミサイルは破棄しても良いと思うであろう。アメリカ・ファーストのトランプにとっては軍事的にはそれだけで十分なのである。
 多くの政治家や評論家がこれまでのパラダイムのなかで批判してみても、意味が無い。トランプの行動はパラダイムを変えようとしているのである。その変化のなかで、事態にどう対応するかを考えるのが政治家や評論家の役目なのではないか?
 朝鮮半島は中国の影響下に入り、日本は中国との関係では、かろうじて独立を保ちつつ対峙するという、古代の東アジアの地政学的関係と同じようになる可能性がある。また、日本とアメリカの関係は、かつての琉球王国と日本との関係と似た形になるのかもしれない。

iPS細胞論文不正2018年01月24日 15:34

 京大iPS細胞研究所で論文不正があったことが明らかになった。起こるべくして起こった感がある。
 急激に成長する分野、競争の激しい分野では、不正行為は必ずといっていいほど起こると考えておく必要がある。山中所長をはじめ責任ある人達は当然そのことは想定して気をつけていたのであろうが、対策は万全とは行かなかったようである。ただ、iPS細胞研究所が置かれていた環境は対策を採ろうとしても相当に厳しいものであったように見受けられる。
 世の中に市場原理主義がまかり通り、企業経営者達が、大学のマネジメントに対して会社ではこんなやり方は通用しないなどという批判をして、大学のマネジメントを営利会社のようにするのが良いという風潮を作ってきた。とりわけ法人化以後の大学は毎年運営交付金を削減され、人員も研究費も減少していった。研究費に関しては、いわゆる競争的資金を獲得することでそれを補うように仕向けられてきた。人員については、競争的経費を獲得できた研究室ではその経費で、その資金がある年度限りの任期付きのポストを作って、若手研究者を雇うようなった。米国等でも試験的任用した後、特に問題が無ければ任期なしのポストに移れるという採用の仕方はあるが、日本で現在はびこっているのはこれとは似て非なるもので、期限が来れば財源がなくなるので、当人に問題が有る無しに関わらず、失職することになる。
 iPS細胞研究所は、大学が公表しているデータによると、約80億円の年間執行予算の内、9割が競争的資金や寄付などの外部からの資金によるもので、基盤的運営費は1割に満たないようである。他分野から見れば、iPSという日の当たる分野ならではの、羨ましいほどの外部資金を得ていることになるが、逆に言えば、それで任期付きの研究員を雇わなければ成り立たない研究所ということで、実際に職員の9割は任期付きのポストに就いているという。この状況で、将来に不安を抱く彼らが高い倫理観を持つことは、かなり困難であろう。
 山中教授が高い使命感で、iPS細胞による医療の実用化を目指していることは疑うべくもないが、今の大学の置かれている環境では大規模な実用化研究は無理である。
 ノーベル賞を受賞するまでの山中教授の研究は基礎研究であり、大学での研究にふさわしかった。しかし実用化研究レベルになると、理研など旧科学技術庁系の研究所あるいは厚労省の研究所で行い、さらに民間企業の研究へと移行すべきであろう。それにしても大学の基盤となる運営交付金の減少は、日の当たらない分野では、さらに深刻な状況になっている。政府は抜本的な制度改革を行う必要がある。文科省は大学に対して運営交付金は十分に確保して、そのうえで競争的経費を優れた研究者に配分するようにすべきである。
 身分が安定して競争がないと、怠惰になる者が出てきて研究の生産性が落ちるリスクがある。身分が不安定な環境で競わせると、研究の生産性は上がるが、取り返しのつかない信用失墜が発生するリスクがある。どちらが良いのか。首は切らずに良い成果が得られた研究者に研究費をプラスするという資金の使い方にすべきではないか。
 学問は生活のためにやるのではない代わりに好奇心が必要で、好奇心がある者が怠惰になるリスクは少ない。好奇心をなくす者もいるであろうが、そういう者を身分不安定な競争的環境に入れても学問をするとは限らず、邪なことを思いつくのみであろう。不祥事を起こすより何もしない方がましであるから、マネジメントとしては全体の歩留まりをほどよいところにおいて対処すべきか。

自由と民主—象徴天皇の在り方2017年07月04日 18:42

 日本における、いわば「非文明」の時代であった、縄文式土器の時代は約1万年間続いた。この時代の人が精神的に安定していたのかどうかまではよくわからないが、自然と折り合って生きていたのであろう。やがて農耕文明の影響を受けた弥生式土器の時代になると、人々は文明生活にとって不都合な自然を克服しようとするようになる。集団社会を創り、周囲に外敵から守るための環濠を築くなどした中に住み、国の始まりが見られるようになる。そのリーダーは一般民とは別の特別の墓に埋葬されるようになる。「文明」の始まりは格差社会の始まりでもある。
 こうして文明社会ができるが、「文明」が進んでも克服しきれない自然の力に遭遇し、これと折り合うことができず挫折すると、これに対処して心の安定を得るために神の助けを借り、宗教が生まれたのではないだろうか。さらに近代になって、科学技術が発達し自然の克服が進むと、神の必要性は減り、無神論者も現れてくる。
 しかし所詮科学技術には限界があるので、近代人も宗教が捨てきれない。エーリッヒ・フロムは社会心理学的な観点から自由からの逃走を説いたが、自由に生きることを得ようとする文明人も神なしにいられないことを自覚せざるを得ないという現実が文明社会の根本にあるのではないだろうか。
 神風なんか吹かないことが明白になった敗戦後の日本で、私は、これから人々はもっと科学的で合理的なものの考え方をするだろうから、神や仏を信じる人は減るのではないかと思った。しかし、どれだけ宗教心があるかどうかは分からないが、若い人達の間でも神社仏閣詣でが盛んである。それどころか明らかに非科学的な預言にさえのめり込む。
 フロムは権威から自由になった人間が孤独と不安から逆に絶対的な権威を求め自由を捨てるというが、この循環をフロムがいうように愛とか創造的仕事とかだけで本当に解決できるだろうか。むしろ神を必要とする人が多数なのだと諦観して、人の数だけある様々な神と折り合って生きる知恵を持つべきではないだろうか。
 フロムは自由な社会であったはずのワイマール共和国で人々がヒトラーのファシズムへと逃走したと論ずるが、日本には天皇という権威がある。律令国家を創った天智・天武の頃の天皇は政治的な絶対権力者であったが、やがて貴族が政治権力を握り、幼少な天皇でも務まるようになる。さらに武士が武力を背景に政治権力を握るようになると、天皇はいっそう権力から遠ざかり、文化的な権威になっていく。決定的だったのは承久の変で、権力を武士から奪取しようとした後鳥羽上皇が敗北し、政治的権力は剥奪されてしまう。このため後醍醐天皇の一時期を例外として、天皇は政治権力から敵対されることは無く、天皇家が滅ぶことを免れた。
 明治維新政府は天皇を政治利用するが、天皇の独裁が認められたわけではなく、元老達が権力を握っていた。伊藤博文が皇太子に生まれることは最大の不幸であるといったのは、その間の実情を物語るものであろう。ワイマールからヒトラーのファシズムになるのと呼応するように、大正デモクラシーから昭和になると神聖化された天皇の統帥権を振りかざした軍部が独走して戦争に突き進むが、破綻して敗戦を迎える。天皇は再び人となり、政治権力から離れて国民の象徴となる。
 キリスト教世界では法皇や教会のような宗教的権威が残っているが、日本にはそのような宗教的権威はない。しかし、自由で民主的な国になった日本の人々にとって、象徴天皇制は一種の神というか宗教的権威なのかもしれないとも思う。
 とりわけ現在の社会状況は自由で民主的であるはずの社会の矛盾が続出し、何か全ての人々が納得する権力か権威を求めているのではないかと思われ、ヒトラーのような絶対的権力は望まない人々が、象徴としての天皇の存在をより意識するようになったのではないか。だとすると、敗戦直後に天皇の政治権力を剥奪するために象徴天皇としたという事情とは別に、今の時代の象徴天皇というものの意義をよく考えるべきであろう。おそらく敗戦後に皇太子となった今上天皇は誰よりも自分のこととして、象徴天皇の在り方を考え続けてきたのであろうと推察されるので、その考えを尊重しつつ、国民一人一人が象徴天皇像を構築していかなければならない。

原子力の意味するものと今後の原子力は?2017年03月05日 21:55

 福島の原発事故や高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉などにより、今後の原子力の在り方について多くの関心が集まっており、原子力委員会でも「原子力利用に関する基本的考え方」の議論が行われている。しかしそこで使われる原子力という言葉の意味するものが議論する人によって一致しているとはいえない。

1.初期の原子力の意味
 かつて全国共同利用研究所として東京大学原子核研究所(核研)が田無町(現西東京市)に建設されることになったときに、田無町の不安に応えて、対応に当たった朝永振一郎は研究所の目的が原子核物理学の基礎研究であって、原子力の研究は決して行わないという、決意を表明している。1954年(昭和29年)当時のことである。ここでの原子力は原子爆弾等を指しているのであろう。これには以下のような時代背景がある。
 戦後いわゆる原子力の研究開発を始めようという気運が起こったときに、学者の間では原爆研究につながるという懸念から反対論が強く、日本学術会議でもなかなか方針が決まらなかった。そのような中で、アイゼンハワー大統領の国連演説(1953年12月8日国連総会におけるAtoms for Peace演説)を受けて、いち早く動いた中曽根康弘らの政治家が1954年3月議員立法による補正予算でいわゆる原子力予算を認めさせた。その後を追って1955年12月原子力基本法、原子力委員会設置法などができ、翌年1月科学技術庁が設置され、その後、原子力研究所(原研)などが設立されていった。このとき学者たちの要望も取り入れて、原子力の利用は平和目的に限ることと、民主、自主、公開のいわゆる3原則が原子力基本法に盛り込まれた。
 しかし同時に、当時の東京大学の総長で国立大学協会(国大協)の会長であった矢内原忠雄が原子力関係法の規制から大学を除くことを求めたため(いわゆる矢内原原則)、原子力委員会設置法の法案採決の際に「原子力委員会が企画・審議・決定する関係行政機関の原子力利用に関する経費には大学における研究経費は含まないものとする」という附帯決議がなされた。矢内原は政治家の間に核研を原子力予算で運営するという動きがあったことを懸念したともいわれている。
 これは大学の自治の問題であり、大学が独自に原子力研究を行うことを妨げるものではない。実際、科学技術庁は原子力予算で原研に原子炉設置していくが、他方、科学技術庁の原子力予算とは別に、文部省は京都大学に研究用原子炉を建設し、有力大学の工学部に原子力関係学科を設置することを認めるなど、原子力研究を推進していく。
 ただし、全体的な日本の原子力政策は、科学技術庁長官が委員長となる原子力委員会において長期計画として策定される仕組みになったので、予算は別であるが大学の原子力研究者も原子力委員会の方針にそって研究するようになる。なお、その後の機構改革によって、現在の原子力委員会は文部科学省から独立し長期計画・大綱を立てる機能も持っていない。
 原子力基本法では、「原子力」とは原子核変換の過程において原子核から放出される全ての種類のエネルギーをいう、と定義されている。この定義では加速器で発生する放射線は「原子力」ではないが、いわゆる原子力業界の人たちは、定義にある核エネルギーの代表的な利用法である原子力発電(原発)や放射性同位元素による放射線利用などだけではなく、加速器等の放射線発生装置による光子や粒子ビーム等の利用も放射線利用ということで、原子力の利用であるとしている。なお、このいわゆる日本の原子力の経済規模は、福島の事故以前の調査結果では、約10兆円規模で、原発と放射線利用が半分程度ずつであった。このように日本の原子力関係者の間では原子力が意味するものに核兵器は入っていない。しかし、一般の人たちの実感としては原子力といえば核兵器と原子炉をイメージすることが多く、医学利用などの放射線利用は原子力と意識されないことが多い。
 というのも、そもそも原子力が実用化された最初のものが、核分裂反応で発生するエネルギーの利用が原子爆弾(原爆)であり、核融合反応で発生するエネルギーの利用が水素爆弾(水爆)であった。広島、長崎への原爆投下と水爆実験による第五福竜丸の被曝は原子力の怖さを日本人に印象づけていた。それ故、原子力利用を始めるにあたって学者達が懸念したのが核兵器の問題であったのは当然である。特に第五福竜丸の被爆は1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝であり、日本の原子力利用開始の議論の時期と重なっていた。

2.平和利用という名の原子力発電の始まり
 原子力発電に関しては、ソ連が1954年6月にオブニンスクの原子力発電所で世界初の実用原子力発電を開始した。実はアメリカでは多くの型式の原子炉が研究されていたのであるが、ソ連に後れを取ったアメリカは急いで発電用原子炉を開発するため、既に原子力潜水艦に使われていた軽水炉を使って民生用の発電炉を開発した。1957年12月に運転開始されたシッピングポートの原発(加圧水型軽水炉)が米国初の商業原子力発電であった。これがその後、アメリカや日本で軽水炉が多く使われることになった理由のひとつである。
 第五福竜丸後に起こった原子力に批判的な世論の高まりを懸念した米国は1955年11月に読売新聞社(正力松太郎社長)と共同で東京日比谷公園において原子力平和利用博覧会開催し、1ヶ月半で36万人余りの入場者を集めた。その後、原子力平和利用博覧会は米国大使館と地方新聞社の共催の形で全国展開していった。これにより日本の反原子力の世論が弱くなっていったと、米国CIAはその成果を評価していたことが最近明らかになっている。原子力平和利用博覧会によるキャンペーン以後、正力は自ら政界入りして原子力委員会委員長・科学技術庁長官となり、日本の原発開発を政府主導で強力に進めた。
 このため日本では自国の核兵器開発への懸念が薄れ、核兵器反対はもっぱら外国の核大国に向けられたものとなった。

3.原発の採算性
 そもそも日本が原子力発電を開始するにあたって原子力産業会議で大事故が起こったときの損害賠償費用を算定したところ、当時の国家予算規模になることが分かり、電力会社が原発開発に尻込みしたのを、万一の場合は国が支えるということで、無理に推進した経緯がある。まして福島の事故の現実を目の当たりにして、電力会社はあらためて実際に事故が起これば会社の破綻になるような大事故になる場合には確率論的リスク評価で採算性を議論しても意味がないことを自覚させられたであろう。
 したがって、賢い電力会社は、とりあえず暫くは事故がないことに賭けて、なるべく既に減価償却が済んでいるような既存の原発をギリギリまで使い切って儲けた後で、原子力から手を引くであろう。あるいは、政府が全面的に支えて、企業側としては採算性がとれるようにする、と考える場合は、今後も原発を建設するであろう。

4.核抑止力としての原発
 日本では原子力は平和利用の原発しかあり得ないと原子力関係者は無邪気に思っているが、政治家達は原子力の兵器への利用を忘れたわけではない。実際、1964年東京オリンピックの開催中の中国初の核実験直後に、佐藤栄作首相が水面下で米国に日本の核武装論を説き、それを取り下げる代わりに米国の核の傘を保証させたといわれる。福島の事故後、反原発の声が大きくなったときにも、政治家の間で核抑止力のために原発の稼働を続け、潜在的な核兵器開発の技術を維持すべきであるという意見があった。
 しかし、原発は核兵器そのものではないのだから、核兵器を作る時には、そのためにある程度の時間が必要になり、そう考えるとわざわざ原発を維持しなくても、最先端科学の基盤技術があれば、必要になったときに開発するとしても余り差はないであろう。したがって核抑止力のために原発を維持することは不経済である。

5.核抑止力としての今後の原子力政策
 政治家達がこのことに気がつけば、リスクが大きい原発を維持する動機はなくなる。核抑止力を持ちたければ核兵器開発に直接結びつく研究開発に予算を付ける方が良いにきまっているから、今後本音の議論がなされるような雰囲気になれば、政府も原発推進にこだわらなくなるかも知れない。
 佐藤栄作の時代には日本の核武装に反対した米国も同盟国の防衛費の増強を求めるトランプ大統領の時代には日本の核兵器開発を容認するかもしれない。容認しなくても増額した防衛費の一部を大学等の研究機関に大盤振る舞いして核抑止力の維持に有用な研究を支援するということは十分あり得ることである。既に防衛予算による大学への補助金の増額は始まっている。一方で文科省が大学に出す予算は財務省によって減額され続けているので、どういう事態が起こるかは火を見るより明らかである。

 6.今後の原子力の在り方
 上記の検討に基づき、今後の原子力の在り方について、結論だけ述べると、
・ 既存の原発はなるべく早く廃炉にする。40年を過ぎた原発の運転延長は認めない。
・ 建設中ないし計画中の原発は、取りあえず建設・計画を中止する。
・ プルトニウムを利用する燃料サイクルは中止し、これまでに蓄積したプルトニウムと使用済み燃料の処分法の研究は続ける。
・ 大学・研究機関では、革新的に安全な原子炉の開発研究や、核兵器に利用されにくい燃料サイクルの研究開発を行う。
・ 2030年頃に研究開発の進捗状況を世論の判断材料として示し、その時点で改めて開発された革新的な原発を利用するかどうかを判断する。
 これが電力会社の本音にもそい、国民の不安に応えるべく原子力人材を確保して、政府を含めた原子力関係者が果たすべき責任である。

「もんじゅ」廃炉の先は?2016年09月28日 17:12

 政府は「もんじゅ」を廃炉するが、核燃料サイクルは維持し、今後の高速炉開発は経産省主導で行うことを決めたようである。これまでも「もんじゅ」は動いてなかったし、これから動かすにも時間も金もかかることを考えると、「廃炉」という言葉を使うかどうかは別として実質的に「もんじゅ」は死んでいるも同然だから、実態として原子力政策は何も変わらず、今回起こったことは文科省が経産省に主導権を奪われただけのことである。
 今回の決定で「もんじゅ」が廃炉になれば核燃料サイクルが破綻するという意見もある。しかし、核燃料サイクルのもうひとつの要である六ヶ所村の再処理工場の方も、「もんじゅ」よりはるかに巨額の金をかけても、トラブル続きで工期の延長を繰り返しており、まだ完成していない。こんな状態だから高速炉開発が遅れたり追加予算が必要になったりする程度では燃料サイクルの政策を変えるほどのことではないというのが政府の認識かもしれない。
 またロードマップ的に、実験炉「常陽」、原型炉「もんじゅ」、その次の実証炉と段階を踏むのだから、「もんじゅ」なしに「常陽」で実験しても実証炉の設計の役に立たないとか、「もんじゅ」の段階で失敗したのだから実証炉には行けないのだとかいう意見もあるが、実は原子力の関係者がよく使う言葉である「ロードマップ」なるものの実態はいい加減なものである。「もんじゅ」を設計するときに「常陽」の経験を継承していたとは思えない。「もんじゅ」は「常陽」とは別々にメーカーが設計して、設計ミスを犯している。本来なら旧動燃の技術者が設計してメーカーに図面を渡して製作するべきで、そうすれば技術は発注側で継承されていくが、旧動燃は仕様書だけ書いて、実際の設計・製作はメーカーに丸投げし、その図面のチェックもする能力がなかったといわざるを得ない。でなければ「もんじゅ」であのようなおそまつな設計ミスをするはずがない。つまり「もんじゅ」があろうとなかろうと次は実証炉を作るというのが彼らの体質であるから、「もんじゅ」が廃炉になっても路線が変わらないというのは彼ら的には不思議なことではないのである。
 いっぽう、核燃料サイクルを止めれば貯まり続ける使用済み燃料を原発の敷地から六ヶ所村へ運び出せなくなるし、貯まっているプルトニウムの処分にも困る。現在の原発を運転するためにも核燃料サイクルを止めるとはいえないのである。いやむしろこれこそが本音で、電力会社としては原発の新規建設では採算が取れないから、現在の軽水炉の寿命が尽きるまでできるだけ長く既存の原発を動かして、その後は原子力から撤退する気であるが、それまでは政府には核燃料サイクルを止めないと言っておいてほしいというだけのことかもしれない。
 こんな官庁の主導権争いや電力会社の金勘定からその場しのぎの方針を決めていいのであろうか。もっと根本的に原子力について方針を検討すべきであろう。

 まず、今後も原子力を発電に使うかどうかが問題である。これは国民の判断によるべきで、専門家は国民の判断に必要なデータを示す必要がある。
 次ぎに原発をやめるにせよ続けるにせよ、既に貯まった使用済み燃料をどう処理処分するかの問題がある。
 
 今後も原発を使う場合には、燃料サイクルをウラン・プルトニウムではなく、トリウムサイクルにすべきである。トリウムは使用済み燃料中に現在のウラン燃料の場合のようにプルトニウムやマイナーアクチノイドなどの長寿命の放射性物質が生じにくいので使用済み燃料の処分問題が格段に楽になる。なお、トリウムはそのままでは核分裂しないが、中性子を吸収することでウラン233という、現在原発で使われている燃料のウラン235より軽い核分裂性のウランができるので、これを利用する。これを作るとき同時にウラン232も混在してできるがこれは崩壊して行く過程で強いガンマ線を出すので、トリウムからできるウランは、放射線の遮蔽がなされている発電施設では取り扱えても、核兵器の材料としてはプルトニウムに比べて取り扱いにくく不向きである。既存の原発の寿命が来たら原子力発電をやめるのであれば、トリウムサイクルの開発をする必要はないが、数十年以上原子力発電を続けるのであればトリウムサイクルを開発する時間はある。
 高速炉の研究をする場合には、フランスの高速炉ASTRIDの開発に協力することに反対ではないが、これはあくまで国際共同研究であって、高速炉を作るのであれば日本独自の開発計画をもつ必要がある。中断しているFACTを再開するのも良いと思うが、より積極的にはトリウム炉の研究開発を採り入れるべきである。
 
 使用済み燃料の処理処分については、これまで「もんじゅ」をそのために使うということにしてきたが、それは「もんじゅ」を廃炉にしないための方便のようなこじつけで、「もんじゅ」である必要はない。今回の決定では、そのためには別の高速炉で研究をするというような説明がなされているが、語るに落ちたという感じである。
 そもそも使用済み燃料の処理処分はまだ基礎研究の段階である。その研究用装置としては、臨界状態で動かす必要がある原子炉よりも、未臨界から臨界まで様々な条件で試験ができる加速器駆動システム(ADS)の方が有利である。処理処分の実用機ということではなく、そのような試験研究装置として、「もんじゅ」の敷地と建物等を可能な限り利用して、ADSの建設をすることをすすめるべきである。
 ADSの予備的実験は京都大学原子炉実験所でなされており、より本格的な要素技術開発研究が日本原子力研究開発機構でJ-PARCを利用して行われているので、「もんじゅ」関係の研究者とともにこれらの研究者を結集して本格的なシステムの実現を図ることはできるであろう。 
 地元は「もんじゅ」が廃炉になることに不満だといわれるが、いつまた事故を起こすかもしれない「もんじゅ」にこだわっているのではなく、研究拠点の存続を求めているのだと察する。そのためにも今後原子力発電を続けるにせよやめるにせよ必要な試験研究用装置である加速器駆動システム(ADS)を敦賀に建設するのが、地元の期待に応える最も良い方法であろう。