憲法9条と自衛隊 ― 2023年05月07日 11:58
憲法記念日になると憲法と自衛隊の存在が話題になる。とりわけ今年は岸田内閣が国会での議論もなく閣議で国防に関する政策を改変して行く処方を採ったことで懸念も広がっている。私はかつて自衛隊の在り方を、憲法の精神に従って整理することで、違憲状態といわれることが無くなるのではないかと考えたことがある。改めてその要旨を述べる。
現在の憲法9条は以下のようになっている。
憲法
9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
英文
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
素直に読めばこれで自衛隊を憲法違反と認めないわけには行かない。まして敵基地を反撃する能力の認めるとあればなおさらである。
私の私案は以下のようなものである。
(私案)
国際平和に貢献するためには、国連警察軍の予備隊的な性格を持たせた国際平和警察隊(police)をわが国として設置し、国連警察軍に編入された場合は国連軍の指揮下で行動する。
国内の災害復旧治安維持等のためには、国家保安省(guard)を設置する。保安省には現在の海上保安庁のほか、陸上保安庁、上空保安庁の三庁を置く。さらに最近の情勢に対応して国家保安省にサイバー保安本部を置く。
現在の自衛隊(forces)は、上記の国際平和警察隊および国家保安省に分離吸収して、廃止する。
ただし、現実にはまだ常設の国連警察軍はないので、それができるまでの間は、国際平和警察隊は国連の了解の下でわが国周辺地域の平和維持活動を行う。周辺国に同様に趣旨の国際平和警察隊が編制されれば共同して地域の平和維持に当たる。これは集団的自衛権とは全く別の概念で作られるもので、やがて拡大していけば常設の国連警察軍となるべきものである。
現在の憲法9条は以下のようになっている。
憲法
9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
英文
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
素直に読めばこれで自衛隊を憲法違反と認めないわけには行かない。まして敵基地を反撃する能力の認めるとあればなおさらである。
私の私案は以下のようなものである。
(私案)
国際平和に貢献するためには、国連警察軍の予備隊的な性格を持たせた国際平和警察隊(police)をわが国として設置し、国連警察軍に編入された場合は国連軍の指揮下で行動する。
国内の災害復旧治安維持等のためには、国家保安省(guard)を設置する。保安省には現在の海上保安庁のほか、陸上保安庁、上空保安庁の三庁を置く。さらに最近の情勢に対応して国家保安省にサイバー保安本部を置く。
現在の自衛隊(forces)は、上記の国際平和警察隊および国家保安省に分離吸収して、廃止する。
ただし、現実にはまだ常設の国連警察軍はないので、それができるまでの間は、国際平和警察隊は国連の了解の下でわが国周辺地域の平和維持活動を行う。周辺国に同様に趣旨の国際平和警察隊が編制されれば共同して地域の平和維持に当たる。これは集団的自衛権とは全く別の概念で作られるもので、やがて拡大していけば常設の国連警察軍となるべきものである。
新型コロナウィルス・・やはり見えてきた感染症ムラ ― 2020年05月06日 12:26
東京電力福島第一発電所の事故では、原子力ムラの存在が人々の目に見えてきたが、今回の新型コロナウィルス感染症のパンデミックでは日本に感染症ムラがあるらしいことが見えてきた。
政府の専門家会議なるものはこの感染症ムラの有力者に支配されているような気が最初からしていたが、最近ますますそれが明確になってきている。
当初検査を制限したPCR検査に対する方針を決め、何ヶ月も経ってからその方針のまずさを認めないまま屁理屈をこねて実質方針変更せざるを得なくなったことを正当化する態度は、自分たちだけに通じる言葉で理屈をこねて自分たちの正しさを信じている高慢で閉鎖的なムラの生態そのものを示している。
実効再生産数についても、素人に説明しても分からないというばかりの姿勢で計算結果だけ示し、説明は今忙しくてする暇がないがその内にすると言いつつ、終息に向かっているかのように見せるなど自己中もいいところである。この実効再生産数に関しては「専門家ではない」山中伸弥教授が外国の論文を引用して大阪府などのデータを使って計算して見せており、感染症ムラの人間でなくても理解可能なものである。
山梨大学の島田眞路学長は専門家会議を痛烈に批判している。私は過激な批判をする気はないが、専門家達が、自分達が感染症ムラの論理にはまり込んでしまっていることに気がついて、国民の信頼を得るように望むのみである。
政府の専門家会議なるものはこの感染症ムラの有力者に支配されているような気が最初からしていたが、最近ますますそれが明確になってきている。
当初検査を制限したPCR検査に対する方針を決め、何ヶ月も経ってからその方針のまずさを認めないまま屁理屈をこねて実質方針変更せざるを得なくなったことを正当化する態度は、自分たちだけに通じる言葉で理屈をこねて自分たちの正しさを信じている高慢で閉鎖的なムラの生態そのものを示している。
実効再生産数についても、素人に説明しても分からないというばかりの姿勢で計算結果だけ示し、説明は今忙しくてする暇がないがその内にすると言いつつ、終息に向かっているかのように見せるなど自己中もいいところである。この実効再生産数に関しては「専門家ではない」山中伸弥教授が外国の論文を引用して大阪府などのデータを使って計算して見せており、感染症ムラの人間でなくても理解可能なものである。
山梨大学の島田眞路学長は専門家会議を痛烈に批判している。私は過激な批判をする気はないが、専門家達が、自分達が感染症ムラの論理にはまり込んでしまっていることに気がついて、国民の信頼を得るように望むのみである。
歴史問題 ― 2019年09月11日 17:49
日本では8世紀に書かれた「日本書紀」で神武天皇の即位が紀元前660年ということになっているが、朝鮮半島では13世紀に書かれた「三国遺事」で壇君王建が紀元前2333年に朝鮮国を建国したことになっている。これは神話ではあるが、韓国の歴史では、この朝鮮国を「古朝鮮」として後に中国の漢帝国(武帝)に滅ぼされるまで続いた国と考えられている。
実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。
実際には殷が滅んだときその遺民が半島に来て箕子朝鮮を創り、その後に燕の衛満が逃れてきて箕子朝鮮を乗っ取り衛氏朝鮮となり、この衛氏朝鮮を漢の武帝が滅ぼし、楽浪郡などを設置したというのが定説であるが、半島の歴史家は半島が他民族に支配されたことがあったことを認めていない。箕子朝鮮や衛氏朝鮮の時代は単に「古朝鮮」の時代であったとしてとらえられている。
その後、漢帝国の力が衰え、半島では高句麗、百済、新羅が鼎立した時代に倭(日本)が百済と新羅に侵攻したので高句麗の広開土王が倭を撃退したということが広開土王の石碑に書かれているが、これに関しても半島の歴史家の中には、これは単に倭が高句麗と戦ったことが書かれているだけで、百済・新羅が倭に臣従したわけではない、と主張する人達がいる。
やがて中国に隋・唐という帝国が出現すると、半島の三国はそれぞれに帝国との関係を模索する。その中で新羅は唐と連合して百済を滅ぼす。このとき倭は百済再興のために出兵するが白村江で大敗する。高句麗も唐に滅ぼされる。さらに唐が西方の戦いで東方に関われなくなったのを幸いに新羅は唐を追い出し、半島は新羅によって統一される。統一新羅は半島の最初の統一王朝である。ただし高句麗があった北部の権力の空白地帯には渤海が建国される。このため韓国の学者は渤海を朝鮮の国であると主張するが、中国の学者は中国の地方政権であると主張しており、歴史認識は一致していない。
唐帝国が弱体化すると半島でも新羅が内紛で分裂し、北部に高麗が建国される。一方、中国の北に遼が建国され渤海を滅ぼす。渤海の民は南下して高麗に受け入れてもらう。このことで高麗は強国となり、最終的に分裂していた南部を攻略して半島を統一する。
やがて中国に宋が建国され経済大国になるが、軍事的には遼の方が強国であった。さらに高麗の北に女真族が金を建国する。高麗は宋、遼、金の三国と対峙しなければならなくなった。宋は金と連携して遼を滅ぼすことに成功するが、すぐに金によって滅ぼされ、王族が南に逃れて南宋を建国する。高麗は南宋が軍事的に全く頼りにならないので、金に朝貢する。しかし、金の支配下にあった遊牧民族モンゴルが統一国家を樹立し、東西に兵を進めて大世界帝国を築く。金は滅び、高麗では講和派が武臣政権を倒してモンゴルに服する。以後、高麗王はモンゴル皇族と縁戚関係を結ぶのが伝統となる。さらにモンゴル(元)は日本を征服しようとし、高麗に先鋒を務めさせるが、日本では文永・弘安の役(「元寇」)ともいうこの戦いは失敗し、皇帝クビライの死により日本征服は諦める。
やがて元帝国が紅巾の乱などで弱体化し明が建国される。モンゴルは半島を直接支配はしなかったが、明は直轄地にしようとしたので高麗は反撃する。この時、明への遠征軍の中にいた李成桂が反転して首都を制圧し、禅譲の形で王となり国号を朝鮮とする。いわゆる李氏朝鮮である。明は当初李王朝に不信感を持っていたが、やがて冊封を認める。以後、李氏朝鮮では明を崇拝する意識が広がる。
李氏朝鮮では高麗時代と同様に官吏登用試験として科挙が採用されるが、その学問の柱となるのは朱子学であった。このため中国を中華とする華夷思想が浸透し、後の中国が夷狄である女真族の清になると、自分たちの方が朱子学的には正統であると自負するほどになる。もちろん半島から文化を伝えられた日本は自分達より格下の弟分であると考える。その日本から豊臣秀吉の軍が侵攻してきたので、明に援軍を求める。半島の農民達は自国軍、明軍、日本軍による食糧調達などで疲弊する。朝鮮民族にとって反日感情の原点となる戦争であった。秀吉の死により日本軍は引き上げるが、明もこの戦いで何も得るものはなく疲弊し弱体化する。ただし朝鮮における明を崇拝する意識は一段と高まる。徳川政権になった日本は関係修復し朝鮮通信使を迎えるようになる。
弱体化した明を金の末裔が征服し清を建国するが、朱子学的秩序意識により李氏朝鮮は清の皇帝の即位を認めなかったので、清は半島に侵攻し徹底的に破壊し、朝鮮王は屈辱的な降伏をする。朝鮮は属国化するが直接支配は免れた。
近代になると東アジアに欧米列強が進出してくる。中華帝国である清が英国に敗れるという大事件に日本は危機感を抱き、徳川幕府と薩長は危うくフランスとイギリスの代理戦争になることを避け、明治維新に至るが、朝鮮では初めフランスやアメリカを撃退できたことで西洋排斥方針に自信を持つものの、結局開国する。その後、宮廷闘争が起こる中でどの外国勢力と結ぶかでロシア、清、日本が絡み複雑な政治状況となる。その中で日清戦争が起こり、日本が勝利するもののロシアなど三国の干渉受けて影響力が後退する。日本は影響力を強めようとして閔氏殺害事件などが起こるが、高宗はロシアの支援を受けて皇帝として即位し、国号を大韓帝国とする。ロシアが南下して影響力を強める中で日露戦争が起こり、日本が辛うじて勝ったことにより、半島に影響力を行使することを欧米が認めた。高宗は外交権を日本に譲る日韓協約を結び、伊藤博文が初代統監として赴任するが、安重根によって伊藤が暗殺されると、日韓併合論が起こり、日本は韓国を併合する。
太平洋戦争の終結まで35年あまり続く日韓併合時代は、古朝鮮以来外国人支配がなかったと考えるプライド高い人達にとっては、外国人しかも朱子学的秩序では下位にある日本人に支配されたことを現実として認めざるを得ない悪夢の時代である。文在寅大統領が「一度反省したからといって、一度合意したからといって終わりにはならない」というのは日韓併合が彼にとって消えることのないトラウマであるからであろう。「北朝鮮と連携すれば日本に勝つ」というのは日本に勝つまではそのトラウマは消えないということであろう。これが韓国の国民感情であり、韓国政権の正義であるから、日本が個々の案件に関して法的に解決済みなどと日本の正義を述べてみても解決はしない。
周囲の強国の圧迫を受けてどうやってプライドを持ち続け生き残るかを模索するのが小国の歴史であった。大陸と海を隔てた列島と陸続きの半島ではその困難さは異なっていたであろう。しかしグローバル化した現代にあっては、半島も列島もアメリカ、中国、ロシアと対峙していかねばならない点では共通である。共通の歴史認識・時代認識を築くときであろう。
皇統の考え方 ― 2019年07月10日 17:56
アフリカから出たホモ・サピエンスが日本列島に来たのは数万年前とされる石器時代後期である(第1期移住)。その頃は寒くて北海道は大陸と陸続きで、朝鮮半島と日本列島の間の海も狭く渡るのに困難はなかった。南からは島伝いにやって来たと考えられる。最近丸木舟で当時は中国大陸と陸続きであった台湾から与那国島へ渡るという国立科学博物館の実験が成功した。列島の沖は太平洋でこれより先はないから、列島に来た人達はいわば吹きだまりに集まったようなもので、逃げようもなく、列島はいろいろな方面からいろいろな時期に来た人達の「るつぼ」となるように運命づけられていた。やがて1万4千年前、温暖期を迎えると、海面が上昇して大陸からの移住は困難になる。列島の人達は新石器時代を迎え、縄文人となる。
ユーラシア大陸では1万2千年前に一時的な寒の戻りがあり、野生の穀物が採れなくなった人達が農耕を始め、いわゆる4大文明が興る。ただし、日本列島はその後も縄文時代が続く。中国大陸では9000年前に黄河流域で畑作(アワ)が、8000年前に長江流域で水稲耕作が始まる。しかし、4000年前にやや冷涼化した時期があり、長江の水稲耕作は衰え、黄河文明が優勢となって、夏王朝ができる。この文明化から逃れようとした人達が海のルートを開拓し、日本列島へ移住したといわれる。縄文後期の移住で、後の列島各地の海民の先祖ともいわれる(第2期移住)。
水稲耕作は5千年前には長江流域から山東半島に伝わり、朝鮮半島南部には3100年前(紀元前1100年)に伝わったとされる。この頃商(殷)王朝ができる。殷は黄河下流の山東省を基盤とするが、やがて西方から周が興り、3050年前に殷が滅ぶ。殷の遺民の一部は朝鮮半島に逃れる。この頃(紀元前950年頃)水稲耕作が、朝鮮半島南部あるいは前に開拓された海のルートで山東半島から、玄界灘沿岸に伝播してきたと考えられている。その後数百年かけて列島全体に水稲耕作が広がっていく。水稲耕作を持ち込んだ人達は(第3期移住)縄文人とは顔つきが異なる人達で、やがて縄文人とも交流して、弥生人(倭人)となる。この時、縄文人と新たな移住者の間で戦争はなかったようである。
倭人となってからは多くの国ができて互いに戦争するようになるが、大乱後に共立された卑弥呼の例や、神話の大国主神の国譲りのように、矛盾を抱えながらも共存する形が多い。また辺境では平安時代初期まで倭人化してない人達との戦いもあるが、これも徹底的ではない。
殷には神話があったが、周には神話はなく、革命思想で王朝の交代を正当化した。以後中国では革命により王朝が交代することになる。
日本列島では倭人の国が分かれていた頃の最大の国は北九州の伊都国であるが、卑弥呼が共立された頃から纏向地域の前方後円墳を造る政権が樹立される。彼等は出雲系であった可能性があるが、4世紀になると天孫系王朝に交代する。崇神天皇の頃である。出雲系から天孫系への国譲りはこの時であったと考えられる。崇神王朝は仲哀天皇の頃までで、4世紀末の応神天皇の頃からいわゆる倭の五王の時代は応神王朝というべき王朝になる。応神天皇の母は仲哀天皇の皇后である神功皇后であるが、父が仲哀天皇であるかどうかは疑問とされる。さらに倭の五王の最後である雄略天皇の男系血統が絶える6世紀には、応神天皇5世の孫と称して継体天皇が豪族によって擁立される。応神王朝から継体王朝への交代である。
神武天皇を実在の天皇とするのは論外であるが、実在の天皇の最初といわれる崇神天皇から見ても、倭国にはその前に出雲系王朝があり、その後も応神王朝、継体王朝と王朝が交代している。その後も蘇我氏の時代や、天智天皇、天武天皇の時代には王朝交代といっても良いような事件が起こっている。日本書紀、古事記は天武天皇が編纂を命じたとされるが、この史書においては王朝の交代は見られず、神話時代から始まって天照大神の子孫が神武以来の天皇になったことになっている。
おそらく実質的な王朝の交代はあったとしても縄文時代以来、この列島では支配者の交代にあたって革命的な手法を採らず、矛盾を抱えたまま共存することが続いた。それはおそらく大陸と異なり、負けた側が外に逃げ出すことが地理的に困難であったことと、中国や朝鮮半島の国際情勢のために、国内だけで革命に至るまで戦争をしていることが許されなかったためであろう。やがて天皇を政権の担当者から外す工夫をすることによって、さらに革命の起こらない国とした。この状況は明治維新までも続く。太平洋戦争の敗北は天皇制にとって最大の危機であったが、危うく難を逃れた。
万世一系の男系男子という伝統は天武時代に創られたフィクションである。とすれば、現在の我々はフィクションにこだわることなく、女性天皇や女系天皇も認めるか、あくまで男系にこだわって、男系女性天皇にする以外に方法がなくなったときにはその夫または後継者を遠い先祖が天皇であったというフィクションを作るほかないであろう。
ユーラシア大陸では1万2千年前に一時的な寒の戻りがあり、野生の穀物が採れなくなった人達が農耕を始め、いわゆる4大文明が興る。ただし、日本列島はその後も縄文時代が続く。中国大陸では9000年前に黄河流域で畑作(アワ)が、8000年前に長江流域で水稲耕作が始まる。しかし、4000年前にやや冷涼化した時期があり、長江の水稲耕作は衰え、黄河文明が優勢となって、夏王朝ができる。この文明化から逃れようとした人達が海のルートを開拓し、日本列島へ移住したといわれる。縄文後期の移住で、後の列島各地の海民の先祖ともいわれる(第2期移住)。
水稲耕作は5千年前には長江流域から山東半島に伝わり、朝鮮半島南部には3100年前(紀元前1100年)に伝わったとされる。この頃商(殷)王朝ができる。殷は黄河下流の山東省を基盤とするが、やがて西方から周が興り、3050年前に殷が滅ぶ。殷の遺民の一部は朝鮮半島に逃れる。この頃(紀元前950年頃)水稲耕作が、朝鮮半島南部あるいは前に開拓された海のルートで山東半島から、玄界灘沿岸に伝播してきたと考えられている。その後数百年かけて列島全体に水稲耕作が広がっていく。水稲耕作を持ち込んだ人達は(第3期移住)縄文人とは顔つきが異なる人達で、やがて縄文人とも交流して、弥生人(倭人)となる。この時、縄文人と新たな移住者の間で戦争はなかったようである。
倭人となってからは多くの国ができて互いに戦争するようになるが、大乱後に共立された卑弥呼の例や、神話の大国主神の国譲りのように、矛盾を抱えながらも共存する形が多い。また辺境では平安時代初期まで倭人化してない人達との戦いもあるが、これも徹底的ではない。
殷には神話があったが、周には神話はなく、革命思想で王朝の交代を正当化した。以後中国では革命により王朝が交代することになる。
日本列島では倭人の国が分かれていた頃の最大の国は北九州の伊都国であるが、卑弥呼が共立された頃から纏向地域の前方後円墳を造る政権が樹立される。彼等は出雲系であった可能性があるが、4世紀になると天孫系王朝に交代する。崇神天皇の頃である。出雲系から天孫系への国譲りはこの時であったと考えられる。崇神王朝は仲哀天皇の頃までで、4世紀末の応神天皇の頃からいわゆる倭の五王の時代は応神王朝というべき王朝になる。応神天皇の母は仲哀天皇の皇后である神功皇后であるが、父が仲哀天皇であるかどうかは疑問とされる。さらに倭の五王の最後である雄略天皇の男系血統が絶える6世紀には、応神天皇5世の孫と称して継体天皇が豪族によって擁立される。応神王朝から継体王朝への交代である。
神武天皇を実在の天皇とするのは論外であるが、実在の天皇の最初といわれる崇神天皇から見ても、倭国にはその前に出雲系王朝があり、その後も応神王朝、継体王朝と王朝が交代している。その後も蘇我氏の時代や、天智天皇、天武天皇の時代には王朝交代といっても良いような事件が起こっている。日本書紀、古事記は天武天皇が編纂を命じたとされるが、この史書においては王朝の交代は見られず、神話時代から始まって天照大神の子孫が神武以来の天皇になったことになっている。
おそらく実質的な王朝の交代はあったとしても縄文時代以来、この列島では支配者の交代にあたって革命的な手法を採らず、矛盾を抱えたまま共存することが続いた。それはおそらく大陸と異なり、負けた側が外に逃げ出すことが地理的に困難であったことと、中国や朝鮮半島の国際情勢のために、国内だけで革命に至るまで戦争をしていることが許されなかったためであろう。やがて天皇を政権の担当者から外す工夫をすることによって、さらに革命の起こらない国とした。この状況は明治維新までも続く。太平洋戦争の敗北は天皇制にとって最大の危機であったが、危うく難を逃れた。
万世一系の男系男子という伝統は天武時代に創られたフィクションである。とすれば、現在の我々はフィクションにこだわることなく、女性天皇や女系天皇も認めるか、あくまで男系にこだわって、男系女性天皇にする以外に方法がなくなったときにはその夫または後継者を遠い先祖が天皇であったというフィクションを作るほかないであろう。
安倍首相の下での皇統の維持策は旧皇族の復活か? ― 2019年05月06日 15:59
嫡出の男系男子に限るとする現在の制度ではいずれ天皇の後継者はいなくなる。過去の天皇の半数は嫡出子ではないといわれるものの、嫡出子でなくても良いと側室制度を復活することは現在の国民感情となじまない。とすると男系男子の条件を外すか、過去の皇族を復活するしかない。
いまどき男性に限るのはおかしいというのが多くの国民の意見であろう。過去に女性天皇もいたので、女性が皇位につくことには反対は少ないと考えられる。ただし、女系の天皇はいなかったとする人達は男系にこだわる。
過去の皇族を復活させるということに関しては、武烈天皇に後継者が無かったため、応神天皇の五世の孫であるとして継体天皇を即位させた先例がある。もっとも、当時は天皇の子孫は、後世の歴史書は〇〇王と記されていて、皇族と見なされていたので、臣下から皇族への「復活」ということではない。
継体天皇の時は、実際には王朝が断絶したのだという説もあるが、大和政権以外の勢力が大和政権を打倒して新政権を打ち立てたのではなく、大和政権の有力者が皇統を継続させるために考えた策である。天皇の後ろ楯となる有力者としてそれ以前は葛城氏がいたが、継体天皇即位後は葛城氏のもとにいた蘇我氏が最有力者として現れるようになるという、有力者間の力関係の変化はあるものの、磐井の乱を鎮圧するなどして政権は安定化し、継体天皇の皇統は現在まで1500年続く。
また平安時代には、いったん臣籍降下していたが周囲の有力者の思惑から再び皇族となり皇位を継いだ宇多天皇の例もある。これら「復活」の例に限らず、天皇の即位に関しては時の政治的実力者の意向によって後継者が決まる場合が多い。壬申の乱や保元平治の乱のように戦乱になった場合もあるが、多くは豪族、貴族、幕府などの意向によって決まっていった。
現在では国民主権であるから国民の総意で決めればいいということかも知れないが、やはり実際には国民の代表者である時の政権や政権に近い有力者の考えで決まるのであろう。安倍首相は官房長官時代に皇室典範を変えれば壬申の乱のようになると当時の小泉首相に言ったと伝えられるが、テロを起こすような人達がいるということなのであろうか。その安倍晋三氏が今は首相である。皇室典範は変えず、過去の天皇の五世の孫までの旧皇族の復活が結論となるであろう。
いまどき男性に限るのはおかしいというのが多くの国民の意見であろう。過去に女性天皇もいたので、女性が皇位につくことには反対は少ないと考えられる。ただし、女系の天皇はいなかったとする人達は男系にこだわる。
過去の皇族を復活させるということに関しては、武烈天皇に後継者が無かったため、応神天皇の五世の孫であるとして継体天皇を即位させた先例がある。もっとも、当時は天皇の子孫は、後世の歴史書は〇〇王と記されていて、皇族と見なされていたので、臣下から皇族への「復活」ということではない。
継体天皇の時は、実際には王朝が断絶したのだという説もあるが、大和政権以外の勢力が大和政権を打倒して新政権を打ち立てたのではなく、大和政権の有力者が皇統を継続させるために考えた策である。天皇の後ろ楯となる有力者としてそれ以前は葛城氏がいたが、継体天皇即位後は葛城氏のもとにいた蘇我氏が最有力者として現れるようになるという、有力者間の力関係の変化はあるものの、磐井の乱を鎮圧するなどして政権は安定化し、継体天皇の皇統は現在まで1500年続く。
また平安時代には、いったん臣籍降下していたが周囲の有力者の思惑から再び皇族となり皇位を継いだ宇多天皇の例もある。これら「復活」の例に限らず、天皇の即位に関しては時の政治的実力者の意向によって後継者が決まる場合が多い。壬申の乱や保元平治の乱のように戦乱になった場合もあるが、多くは豪族、貴族、幕府などの意向によって決まっていった。
現在では国民主権であるから国民の総意で決めればいいということかも知れないが、やはり実際には国民の代表者である時の政権や政権に近い有力者の考えで決まるのであろう。安倍首相は官房長官時代に皇室典範を変えれば壬申の乱のようになると当時の小泉首相に言ったと伝えられるが、テロを起こすような人達がいるということなのであろうか。その安倍晋三氏が今は首相である。皇室典範は変えず、過去の天皇の五世の孫までの旧皇族の復活が結論となるであろう。
トランプ批判の筋違い? ― 2018年06月13日 15:43
6月12日の米朝会談の結果に対する、多くのトランプ批判がなされている。しかし、それらは批判している人達の政治的信条に基づく批判であって、トランプ大統領の信条に基づく行動として会談がうまくいったかどうかを論じているものではないように見える。
トランプ大統領は大統領選挙前から、アメリカ・ファーストを唱え、経済的に貿易収支の赤字に不満を述べ、軍事的にもアメリカが世界の警察として軍事費を出費することに反対してきた。可能な限り海外に駐留する軍隊を撤退させたいのが本音である。しかし単に金がないからすごすご引き上げるという無様な様は見せたくない。平和を確立したから撤兵するという形で、本音とする軍事費を減らしたい。
この意味でトランプ大統領は今回の会談は成功だと思っているであろう。金正恩もトランプを譲歩させたと喜んでいる(署名が終わったときの金正恩は、よくぞここまで来たと、感極まっているようにも見えた)と思われる。恩を着せられた金正恩は事態をご破算にしないために(トランプが心変わりしないうちに)アメリカに到達するミサイルは破棄しても良いと思うであろう。アメリカ・ファーストのトランプにとっては軍事的にはそれだけで十分なのである。
多くの政治家や評論家がこれまでのパラダイムのなかで批判してみても、意味が無い。トランプの行動はパラダイムを変えようとしているのである。その変化のなかで、事態にどう対応するかを考えるのが政治家や評論家の役目なのではないか?
朝鮮半島は中国の影響下に入り、日本は中国との関係では、かろうじて独立を保ちつつ対峙するという、古代の東アジアの地政学的関係と同じようになる可能性がある。また、日本とアメリカの関係は、かつての琉球王国と日本との関係と似た形になるのかもしれない。
トランプ大統領は大統領選挙前から、アメリカ・ファーストを唱え、経済的に貿易収支の赤字に不満を述べ、軍事的にもアメリカが世界の警察として軍事費を出費することに反対してきた。可能な限り海外に駐留する軍隊を撤退させたいのが本音である。しかし単に金がないからすごすご引き上げるという無様な様は見せたくない。平和を確立したから撤兵するという形で、本音とする軍事費を減らしたい。
この意味でトランプ大統領は今回の会談は成功だと思っているであろう。金正恩もトランプを譲歩させたと喜んでいる(署名が終わったときの金正恩は、よくぞここまで来たと、感極まっているようにも見えた)と思われる。恩を着せられた金正恩は事態をご破算にしないために(トランプが心変わりしないうちに)アメリカに到達するミサイルは破棄しても良いと思うであろう。アメリカ・ファーストのトランプにとっては軍事的にはそれだけで十分なのである。
多くの政治家や評論家がこれまでのパラダイムのなかで批判してみても、意味が無い。トランプの行動はパラダイムを変えようとしているのである。その変化のなかで、事態にどう対応するかを考えるのが政治家や評論家の役目なのではないか?
朝鮮半島は中国の影響下に入り、日本は中国との関係では、かろうじて独立を保ちつつ対峙するという、古代の東アジアの地政学的関係と同じようになる可能性がある。また、日本とアメリカの関係は、かつての琉球王国と日本との関係と似た形になるのかもしれない。
原子力の意味するものと今後の原子力は? ― 2017年03月05日 21:55
福島の原発事故や高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉などにより、今後の原子力の在り方について多くの関心が集まっており、原子力委員会でも「原子力利用に関する基本的考え方」の議論が行われている。しかしそこで使われる原子力という言葉の意味するものが議論する人によって一致しているとはいえない。
1.初期の原子力の意味
かつて全国共同利用研究所として東京大学原子核研究所(核研)が田無町(現西東京市)に建設されることになったときに、田無町の不安に応えて、対応に当たった朝永振一郎は研究所の目的が原子核物理学の基礎研究であって、原子力の研究は決して行わないという、決意を表明している。1954年(昭和29年)当時のことである。ここでの原子力は原子爆弾等を指しているのであろう。これには以下のような時代背景がある。
戦後いわゆる原子力の研究開発を始めようという気運が起こったときに、学者の間では原爆研究につながるという懸念から反対論が強く、日本学術会議でもなかなか方針が決まらなかった。そのような中で、アイゼンハワー大統領の国連演説(1953年12月8日国連総会におけるAtoms for Peace演説)を受けて、いち早く動いた中曽根康弘らの政治家が1954年3月議員立法による補正予算でいわゆる原子力予算を認めさせた。その後を追って1955年12月原子力基本法、原子力委員会設置法などができ、翌年1月科学技術庁が設置され、その後、原子力研究所(原研)などが設立されていった。このとき学者たちの要望も取り入れて、原子力の利用は平和目的に限ることと、民主、自主、公開のいわゆる3原則が原子力基本法に盛り込まれた。
しかし同時に、当時の東京大学の総長で国立大学協会(国大協)の会長であった矢内原忠雄が原子力関係法の規制から大学を除くことを求めたため(いわゆる矢内原原則)、原子力委員会設置法の法案採決の際に「原子力委員会が企画・審議・決定する関係行政機関の原子力利用に関する経費には大学における研究経費は含まないものとする」という附帯決議がなされた。矢内原は政治家の間に核研を原子力予算で運営するという動きがあったことを懸念したともいわれている。
これは大学の自治の問題であり、大学が独自に原子力研究を行うことを妨げるものではない。実際、科学技術庁は原子力予算で原研に原子炉設置していくが、他方、科学技術庁の原子力予算とは別に、文部省は京都大学に研究用原子炉を建設し、有力大学の工学部に原子力関係学科を設置することを認めるなど、原子力研究を推進していく。
ただし、全体的な日本の原子力政策は、科学技術庁長官が委員長となる原子力委員会において長期計画として策定される仕組みになったので、予算は別であるが大学の原子力研究者も原子力委員会の方針にそって研究するようになる。なお、その後の機構改革によって、現在の原子力委員会は文部科学省から独立し長期計画・大綱を立てる機能も持っていない。
原子力基本法では、「原子力」とは原子核変換の過程において原子核から放出される全ての種類のエネルギーをいう、と定義されている。この定義では加速器で発生する放射線は「原子力」ではないが、いわゆる原子力業界の人たちは、定義にある核エネルギーの代表的な利用法である原子力発電(原発)や放射性同位元素による放射線利用などだけではなく、加速器等の放射線発生装置による光子や粒子ビーム等の利用も放射線利用ということで、原子力の利用であるとしている。なお、このいわゆる日本の原子力の経済規模は、福島の事故以前の調査結果では、約10兆円規模で、原発と放射線利用が半分程度ずつであった。このように日本の原子力関係者の間では原子力が意味するものに核兵器は入っていない。しかし、一般の人たちの実感としては原子力といえば核兵器と原子炉をイメージすることが多く、医学利用などの放射線利用は原子力と意識されないことが多い。
というのも、そもそも原子力が実用化された最初のものが、核分裂反応で発生するエネルギーの利用が原子爆弾(原爆)であり、核融合反応で発生するエネルギーの利用が水素爆弾(水爆)であった。広島、長崎への原爆投下と水爆実験による第五福竜丸の被曝は原子力の怖さを日本人に印象づけていた。それ故、原子力利用を始めるにあたって学者達が懸念したのが核兵器の問題であったのは当然である。特に第五福竜丸の被爆は1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝であり、日本の原子力利用開始の議論の時期と重なっていた。
2.平和利用という名の原子力発電の始まり
原子力発電に関しては、ソ連が1954年6月にオブニンスクの原子力発電所で世界初の実用原子力発電を開始した。実はアメリカでは多くの型式の原子炉が研究されていたのであるが、ソ連に後れを取ったアメリカは急いで発電用原子炉を開発するため、既に原子力潜水艦に使われていた軽水炉を使って民生用の発電炉を開発した。1957年12月に運転開始されたシッピングポートの原発(加圧水型軽水炉)が米国初の商業原子力発電であった。これがその後、アメリカや日本で軽水炉が多く使われることになった理由のひとつである。
第五福竜丸後に起こった原子力に批判的な世論の高まりを懸念した米国は1955年11月に読売新聞社(正力松太郎社長)と共同で東京日比谷公園において原子力平和利用博覧会開催し、1ヶ月半で36万人余りの入場者を集めた。その後、原子力平和利用博覧会は米国大使館と地方新聞社の共催の形で全国展開していった。これにより日本の反原子力の世論が弱くなっていったと、米国CIAはその成果を評価していたことが最近明らかになっている。原子力平和利用博覧会によるキャンペーン以後、正力は自ら政界入りして原子力委員会委員長・科学技術庁長官となり、日本の原発開発を政府主導で強力に進めた。
このため日本では自国の核兵器開発への懸念が薄れ、核兵器反対はもっぱら外国の核大国に向けられたものとなった。
3.原発の採算性
そもそも日本が原子力発電を開始するにあたって原子力産業会議で大事故が起こったときの損害賠償費用を算定したところ、当時の国家予算規模になることが分かり、電力会社が原発開発に尻込みしたのを、万一の場合は国が支えるということで、無理に推進した経緯がある。まして福島の事故の現実を目の当たりにして、電力会社はあらためて実際に事故が起これば会社の破綻になるような大事故になる場合には確率論的リスク評価で採算性を議論しても意味がないことを自覚させられたであろう。
したがって、賢い電力会社は、とりあえず暫くは事故がないことに賭けて、なるべく既に減価償却が済んでいるような既存の原発をギリギリまで使い切って儲けた後で、原子力から手を引くであろう。あるいは、政府が全面的に支えて、企業側としては採算性がとれるようにする、と考える場合は、今後も原発を建設するであろう。
4.核抑止力としての原発
日本では原子力は平和利用の原発しかあり得ないと原子力関係者は無邪気に思っているが、政治家達は原子力の兵器への利用を忘れたわけではない。実際、1964年東京オリンピックの開催中の中国初の核実験直後に、佐藤栄作首相が水面下で米国に日本の核武装論を説き、それを取り下げる代わりに米国の核の傘を保証させたといわれる。福島の事故後、反原発の声が大きくなったときにも、政治家の間で核抑止力のために原発の稼働を続け、潜在的な核兵器開発の技術を維持すべきであるという意見があった。
しかし、原発は核兵器そのものではないのだから、核兵器を作る時には、そのためにある程度の時間が必要になり、そう考えるとわざわざ原発を維持しなくても、最先端科学の基盤技術があれば、必要になったときに開発するとしても余り差はないであろう。したがって核抑止力のために原発を維持することは不経済である。
5.核抑止力としての今後の原子力政策
政治家達がこのことに気がつけば、リスクが大きい原発を維持する動機はなくなる。核抑止力を持ちたければ核兵器開発に直接結びつく研究開発に予算を付ける方が良いにきまっているから、今後本音の議論がなされるような雰囲気になれば、政府も原発推進にこだわらなくなるかも知れない。
佐藤栄作の時代には日本の核武装に反対した米国も同盟国の防衛費の増強を求めるトランプ大統領の時代には日本の核兵器開発を容認するかもしれない。容認しなくても増額した防衛費の一部を大学等の研究機関に大盤振る舞いして核抑止力の維持に有用な研究を支援するということは十分あり得ることである。既に防衛予算による大学への補助金の増額は始まっている。一方で文科省が大学に出す予算は財務省によって減額され続けているので、どういう事態が起こるかは火を見るより明らかである。
6.今後の原子力の在り方
上記の検討に基づき、今後の原子力の在り方について、結論だけ述べると、
・ 既存の原発はなるべく早く廃炉にする。40年を過ぎた原発の運転延長は認めない。
・ 建設中ないし計画中の原発は、取りあえず建設・計画を中止する。
・ プルトニウムを利用する燃料サイクルは中止し、これまでに蓄積したプルトニウムと使用済み燃料の処分法の研究は続ける。
・ 大学・研究機関では、革新的に安全な原子炉の開発研究や、核兵器に利用されにくい燃料サイクルの研究開発を行う。
・ 2030年頃に研究開発の進捗状況を世論の判断材料として示し、その時点で改めて開発された革新的な原発を利用するかどうかを判断する。
これが電力会社の本音にもそい、国民の不安に応えるべく原子力人材を確保して、政府を含めた原子力関係者が果たすべき責任である。
1.初期の原子力の意味
かつて全国共同利用研究所として東京大学原子核研究所(核研)が田無町(現西東京市)に建設されることになったときに、田無町の不安に応えて、対応に当たった朝永振一郎は研究所の目的が原子核物理学の基礎研究であって、原子力の研究は決して行わないという、決意を表明している。1954年(昭和29年)当時のことである。ここでの原子力は原子爆弾等を指しているのであろう。これには以下のような時代背景がある。
戦後いわゆる原子力の研究開発を始めようという気運が起こったときに、学者の間では原爆研究につながるという懸念から反対論が強く、日本学術会議でもなかなか方針が決まらなかった。そのような中で、アイゼンハワー大統領の国連演説(1953年12月8日国連総会におけるAtoms for Peace演説)を受けて、いち早く動いた中曽根康弘らの政治家が1954年3月議員立法による補正予算でいわゆる原子力予算を認めさせた。その後を追って1955年12月原子力基本法、原子力委員会設置法などができ、翌年1月科学技術庁が設置され、その後、原子力研究所(原研)などが設立されていった。このとき学者たちの要望も取り入れて、原子力の利用は平和目的に限ることと、民主、自主、公開のいわゆる3原則が原子力基本法に盛り込まれた。
しかし同時に、当時の東京大学の総長で国立大学協会(国大協)の会長であった矢内原忠雄が原子力関係法の規制から大学を除くことを求めたため(いわゆる矢内原原則)、原子力委員会設置法の法案採決の際に「原子力委員会が企画・審議・決定する関係行政機関の原子力利用に関する経費には大学における研究経費は含まないものとする」という附帯決議がなされた。矢内原は政治家の間に核研を原子力予算で運営するという動きがあったことを懸念したともいわれている。
これは大学の自治の問題であり、大学が独自に原子力研究を行うことを妨げるものではない。実際、科学技術庁は原子力予算で原研に原子炉設置していくが、他方、科学技術庁の原子力予算とは別に、文部省は京都大学に研究用原子炉を建設し、有力大学の工学部に原子力関係学科を設置することを認めるなど、原子力研究を推進していく。
ただし、全体的な日本の原子力政策は、科学技術庁長官が委員長となる原子力委員会において長期計画として策定される仕組みになったので、予算は別であるが大学の原子力研究者も原子力委員会の方針にそって研究するようになる。なお、その後の機構改革によって、現在の原子力委員会は文部科学省から独立し長期計画・大綱を立てる機能も持っていない。
原子力基本法では、「原子力」とは原子核変換の過程において原子核から放出される全ての種類のエネルギーをいう、と定義されている。この定義では加速器で発生する放射線は「原子力」ではないが、いわゆる原子力業界の人たちは、定義にある核エネルギーの代表的な利用法である原子力発電(原発)や放射性同位元素による放射線利用などだけではなく、加速器等の放射線発生装置による光子や粒子ビーム等の利用も放射線利用ということで、原子力の利用であるとしている。なお、このいわゆる日本の原子力の経済規模は、福島の事故以前の調査結果では、約10兆円規模で、原発と放射線利用が半分程度ずつであった。このように日本の原子力関係者の間では原子力が意味するものに核兵器は入っていない。しかし、一般の人たちの実感としては原子力といえば核兵器と原子炉をイメージすることが多く、医学利用などの放射線利用は原子力と意識されないことが多い。
というのも、そもそも原子力が実用化された最初のものが、核分裂反応で発生するエネルギーの利用が原子爆弾(原爆)であり、核融合反応で発生するエネルギーの利用が水素爆弾(水爆)であった。広島、長崎への原爆投下と水爆実験による第五福竜丸の被曝は原子力の怖さを日本人に印象づけていた。それ故、原子力利用を始めるにあたって学者達が懸念したのが核兵器の問題であったのは当然である。特に第五福竜丸の被爆は1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝であり、日本の原子力利用開始の議論の時期と重なっていた。
2.平和利用という名の原子力発電の始まり
原子力発電に関しては、ソ連が1954年6月にオブニンスクの原子力発電所で世界初の実用原子力発電を開始した。実はアメリカでは多くの型式の原子炉が研究されていたのであるが、ソ連に後れを取ったアメリカは急いで発電用原子炉を開発するため、既に原子力潜水艦に使われていた軽水炉を使って民生用の発電炉を開発した。1957年12月に運転開始されたシッピングポートの原発(加圧水型軽水炉)が米国初の商業原子力発電であった。これがその後、アメリカや日本で軽水炉が多く使われることになった理由のひとつである。
第五福竜丸後に起こった原子力に批判的な世論の高まりを懸念した米国は1955年11月に読売新聞社(正力松太郎社長)と共同で東京日比谷公園において原子力平和利用博覧会開催し、1ヶ月半で36万人余りの入場者を集めた。その後、原子力平和利用博覧会は米国大使館と地方新聞社の共催の形で全国展開していった。これにより日本の反原子力の世論が弱くなっていったと、米国CIAはその成果を評価していたことが最近明らかになっている。原子力平和利用博覧会によるキャンペーン以後、正力は自ら政界入りして原子力委員会委員長・科学技術庁長官となり、日本の原発開発を政府主導で強力に進めた。
このため日本では自国の核兵器開発への懸念が薄れ、核兵器反対はもっぱら外国の核大国に向けられたものとなった。
3.原発の採算性
そもそも日本が原子力発電を開始するにあたって原子力産業会議で大事故が起こったときの損害賠償費用を算定したところ、当時の国家予算規模になることが分かり、電力会社が原発開発に尻込みしたのを、万一の場合は国が支えるということで、無理に推進した経緯がある。まして福島の事故の現実を目の当たりにして、電力会社はあらためて実際に事故が起これば会社の破綻になるような大事故になる場合には確率論的リスク評価で採算性を議論しても意味がないことを自覚させられたであろう。
したがって、賢い電力会社は、とりあえず暫くは事故がないことに賭けて、なるべく既に減価償却が済んでいるような既存の原発をギリギリまで使い切って儲けた後で、原子力から手を引くであろう。あるいは、政府が全面的に支えて、企業側としては採算性がとれるようにする、と考える場合は、今後も原発を建設するであろう。
4.核抑止力としての原発
日本では原子力は平和利用の原発しかあり得ないと原子力関係者は無邪気に思っているが、政治家達は原子力の兵器への利用を忘れたわけではない。実際、1964年東京オリンピックの開催中の中国初の核実験直後に、佐藤栄作首相が水面下で米国に日本の核武装論を説き、それを取り下げる代わりに米国の核の傘を保証させたといわれる。福島の事故後、反原発の声が大きくなったときにも、政治家の間で核抑止力のために原発の稼働を続け、潜在的な核兵器開発の技術を維持すべきであるという意見があった。
しかし、原発は核兵器そのものではないのだから、核兵器を作る時には、そのためにある程度の時間が必要になり、そう考えるとわざわざ原発を維持しなくても、最先端科学の基盤技術があれば、必要になったときに開発するとしても余り差はないであろう。したがって核抑止力のために原発を維持することは不経済である。
5.核抑止力としての今後の原子力政策
政治家達がこのことに気がつけば、リスクが大きい原発を維持する動機はなくなる。核抑止力を持ちたければ核兵器開発に直接結びつく研究開発に予算を付ける方が良いにきまっているから、今後本音の議論がなされるような雰囲気になれば、政府も原発推進にこだわらなくなるかも知れない。
佐藤栄作の時代には日本の核武装に反対した米国も同盟国の防衛費の増強を求めるトランプ大統領の時代には日本の核兵器開発を容認するかもしれない。容認しなくても増額した防衛費の一部を大学等の研究機関に大盤振る舞いして核抑止力の維持に有用な研究を支援するということは十分あり得ることである。既に防衛予算による大学への補助金の増額は始まっている。一方で文科省が大学に出す予算は財務省によって減額され続けているので、どういう事態が起こるかは火を見るより明らかである。
6.今後の原子力の在り方
上記の検討に基づき、今後の原子力の在り方について、結論だけ述べると、
・ 既存の原発はなるべく早く廃炉にする。40年を過ぎた原発の運転延長は認めない。
・ 建設中ないし計画中の原発は、取りあえず建設・計画を中止する。
・ プルトニウムを利用する燃料サイクルは中止し、これまでに蓄積したプルトニウムと使用済み燃料の処分法の研究は続ける。
・ 大学・研究機関では、革新的に安全な原子炉の開発研究や、核兵器に利用されにくい燃料サイクルの研究開発を行う。
・ 2030年頃に研究開発の進捗状況を世論の判断材料として示し、その時点で改めて開発された革新的な原発を利用するかどうかを判断する。
これが電力会社の本音にもそい、国民の不安に応えるべく原子力人材を確保して、政府を含めた原子力関係者が果たすべき責任である。
「もんじゅ」廃炉の先は? ― 2016年09月28日 17:12
政府は「もんじゅ」を廃炉するが、核燃料サイクルは維持し、今後の高速炉開発は経産省主導で行うことを決めたようである。これまでも「もんじゅ」は動いてなかったし、これから動かすにも時間も金もかかることを考えると、「廃炉」という言葉を使うかどうかは別として実質的に「もんじゅ」は死んでいるも同然だから、実態として原子力政策は何も変わらず、今回起こったことは文科省が経産省に主導権を奪われただけのことである。
今回の決定で「もんじゅ」が廃炉になれば核燃料サイクルが破綻するという意見もある。しかし、核燃料サイクルのもうひとつの要である六ヶ所村の再処理工場の方も、「もんじゅ」よりはるかに巨額の金をかけても、トラブル続きで工期の延長を繰り返しており、まだ完成していない。こんな状態だから高速炉開発が遅れたり追加予算が必要になったりする程度では燃料サイクルの政策を変えるほどのことではないというのが政府の認識かもしれない。
またロードマップ的に、実験炉「常陽」、原型炉「もんじゅ」、その次の実証炉と段階を踏むのだから、「もんじゅ」なしに「常陽」で実験しても実証炉の設計の役に立たないとか、「もんじゅ」の段階で失敗したのだから実証炉には行けないのだとかいう意見もあるが、実は原子力の関係者がよく使う言葉である「ロードマップ」なるものの実態はいい加減なものである。「もんじゅ」を設計するときに「常陽」の経験を継承していたとは思えない。「もんじゅ」は「常陽」とは別々にメーカーが設計して、設計ミスを犯している。本来なら旧動燃の技術者が設計してメーカーに図面を渡して製作するべきで、そうすれば技術は発注側で継承されていくが、旧動燃は仕様書だけ書いて、実際の設計・製作はメーカーに丸投げし、その図面のチェックもする能力がなかったといわざるを得ない。でなければ「もんじゅ」であのようなおそまつな設計ミスをするはずがない。つまり「もんじゅ」があろうとなかろうと次は実証炉を作るというのが彼らの体質であるから、「もんじゅ」が廃炉になっても路線が変わらないというのは彼ら的には不思議なことではないのである。
いっぽう、核燃料サイクルを止めれば貯まり続ける使用済み燃料を原発の敷地から六ヶ所村へ運び出せなくなるし、貯まっているプルトニウムの処分にも困る。現在の原発を運転するためにも核燃料サイクルを止めるとはいえないのである。いやむしろこれこそが本音で、電力会社としては原発の新規建設では採算が取れないから、現在の軽水炉の寿命が尽きるまでできるだけ長く既存の原発を動かして、その後は原子力から撤退する気であるが、それまでは政府には核燃料サイクルを止めないと言っておいてほしいというだけのことかもしれない。
こんな官庁の主導権争いや電力会社の金勘定からその場しのぎの方針を決めていいのであろうか。もっと根本的に原子力について方針を検討すべきであろう。
まず、今後も原子力を発電に使うかどうかが問題である。これは国民の判断によるべきで、専門家は国民の判断に必要なデータを示す必要がある。
次ぎに原発をやめるにせよ続けるにせよ、既に貯まった使用済み燃料をどう処理処分するかの問題がある。
今後も原発を使う場合には、燃料サイクルをウラン・プルトニウムではなく、トリウムサイクルにすべきである。トリウムは使用済み燃料中に現在のウラン燃料の場合のようにプルトニウムやマイナーアクチノイドなどの長寿命の放射性物質が生じにくいので使用済み燃料の処分問題が格段に楽になる。なお、トリウムはそのままでは核分裂しないが、中性子を吸収することでウラン233という、現在原発で使われている燃料のウラン235より軽い核分裂性のウランができるので、これを利用する。これを作るとき同時にウラン232も混在してできるがこれは崩壊して行く過程で強いガンマ線を出すので、トリウムからできるウランは、放射線の遮蔽がなされている発電施設では取り扱えても、核兵器の材料としてはプルトニウムに比べて取り扱いにくく不向きである。既存の原発の寿命が来たら原子力発電をやめるのであれば、トリウムサイクルの開発をする必要はないが、数十年以上原子力発電を続けるのであればトリウムサイクルを開発する時間はある。
高速炉の研究をする場合には、フランスの高速炉ASTRIDの開発に協力することに反対ではないが、これはあくまで国際共同研究であって、高速炉を作るのであれば日本独自の開発計画をもつ必要がある。中断しているFACTを再開するのも良いと思うが、より積極的にはトリウム炉の研究開発を採り入れるべきである。
使用済み燃料の処理処分については、これまで「もんじゅ」をそのために使うということにしてきたが、それは「もんじゅ」を廃炉にしないための方便のようなこじつけで、「もんじゅ」である必要はない。今回の決定では、そのためには別の高速炉で研究をするというような説明がなされているが、語るに落ちたという感じである。
そもそも使用済み燃料の処理処分はまだ基礎研究の段階である。その研究用装置としては、臨界状態で動かす必要がある原子炉よりも、未臨界から臨界まで様々な条件で試験ができる加速器駆動システム(ADS)の方が有利である。処理処分の実用機ということではなく、そのような試験研究装置として、「もんじゅ」の敷地と建物等を可能な限り利用して、ADSの建設をすることをすすめるべきである。
ADSの予備的実験は京都大学原子炉実験所でなされており、より本格的な要素技術開発研究が日本原子力研究開発機構でJ-PARCを利用して行われているので、「もんじゅ」関係の研究者とともにこれらの研究者を結集して本格的なシステムの実現を図ることはできるであろう。
地元は「もんじゅ」が廃炉になることに不満だといわれるが、いつまた事故を起こすかもしれない「もんじゅ」にこだわっているのではなく、研究拠点の存続を求めているのだと察する。そのためにも今後原子力発電を続けるにせよやめるにせよ必要な試験研究用装置である加速器駆動システム(ADS)を敦賀に建設するのが、地元の期待に応える最も良い方法であろう。
今回の決定で「もんじゅ」が廃炉になれば核燃料サイクルが破綻するという意見もある。しかし、核燃料サイクルのもうひとつの要である六ヶ所村の再処理工場の方も、「もんじゅ」よりはるかに巨額の金をかけても、トラブル続きで工期の延長を繰り返しており、まだ完成していない。こんな状態だから高速炉開発が遅れたり追加予算が必要になったりする程度では燃料サイクルの政策を変えるほどのことではないというのが政府の認識かもしれない。
またロードマップ的に、実験炉「常陽」、原型炉「もんじゅ」、その次の実証炉と段階を踏むのだから、「もんじゅ」なしに「常陽」で実験しても実証炉の設計の役に立たないとか、「もんじゅ」の段階で失敗したのだから実証炉には行けないのだとかいう意見もあるが、実は原子力の関係者がよく使う言葉である「ロードマップ」なるものの実態はいい加減なものである。「もんじゅ」を設計するときに「常陽」の経験を継承していたとは思えない。「もんじゅ」は「常陽」とは別々にメーカーが設計して、設計ミスを犯している。本来なら旧動燃の技術者が設計してメーカーに図面を渡して製作するべきで、そうすれば技術は発注側で継承されていくが、旧動燃は仕様書だけ書いて、実際の設計・製作はメーカーに丸投げし、その図面のチェックもする能力がなかったといわざるを得ない。でなければ「もんじゅ」であのようなおそまつな設計ミスをするはずがない。つまり「もんじゅ」があろうとなかろうと次は実証炉を作るというのが彼らの体質であるから、「もんじゅ」が廃炉になっても路線が変わらないというのは彼ら的には不思議なことではないのである。
いっぽう、核燃料サイクルを止めれば貯まり続ける使用済み燃料を原発の敷地から六ヶ所村へ運び出せなくなるし、貯まっているプルトニウムの処分にも困る。現在の原発を運転するためにも核燃料サイクルを止めるとはいえないのである。いやむしろこれこそが本音で、電力会社としては原発の新規建設では採算が取れないから、現在の軽水炉の寿命が尽きるまでできるだけ長く既存の原発を動かして、その後は原子力から撤退する気であるが、それまでは政府には核燃料サイクルを止めないと言っておいてほしいというだけのことかもしれない。
こんな官庁の主導権争いや電力会社の金勘定からその場しのぎの方針を決めていいのであろうか。もっと根本的に原子力について方針を検討すべきであろう。
まず、今後も原子力を発電に使うかどうかが問題である。これは国民の判断によるべきで、専門家は国民の判断に必要なデータを示す必要がある。
次ぎに原発をやめるにせよ続けるにせよ、既に貯まった使用済み燃料をどう処理処分するかの問題がある。
今後も原発を使う場合には、燃料サイクルをウラン・プルトニウムではなく、トリウムサイクルにすべきである。トリウムは使用済み燃料中に現在のウラン燃料の場合のようにプルトニウムやマイナーアクチノイドなどの長寿命の放射性物質が生じにくいので使用済み燃料の処分問題が格段に楽になる。なお、トリウムはそのままでは核分裂しないが、中性子を吸収することでウラン233という、現在原発で使われている燃料のウラン235より軽い核分裂性のウランができるので、これを利用する。これを作るとき同時にウラン232も混在してできるがこれは崩壊して行く過程で強いガンマ線を出すので、トリウムからできるウランは、放射線の遮蔽がなされている発電施設では取り扱えても、核兵器の材料としてはプルトニウムに比べて取り扱いにくく不向きである。既存の原発の寿命が来たら原子力発電をやめるのであれば、トリウムサイクルの開発をする必要はないが、数十年以上原子力発電を続けるのであればトリウムサイクルを開発する時間はある。
高速炉の研究をする場合には、フランスの高速炉ASTRIDの開発に協力することに反対ではないが、これはあくまで国際共同研究であって、高速炉を作るのであれば日本独自の開発計画をもつ必要がある。中断しているFACTを再開するのも良いと思うが、より積極的にはトリウム炉の研究開発を採り入れるべきである。
使用済み燃料の処理処分については、これまで「もんじゅ」をそのために使うということにしてきたが、それは「もんじゅ」を廃炉にしないための方便のようなこじつけで、「もんじゅ」である必要はない。今回の決定では、そのためには別の高速炉で研究をするというような説明がなされているが、語るに落ちたという感じである。
そもそも使用済み燃料の処理処分はまだ基礎研究の段階である。その研究用装置としては、臨界状態で動かす必要がある原子炉よりも、未臨界から臨界まで様々な条件で試験ができる加速器駆動システム(ADS)の方が有利である。処理処分の実用機ということではなく、そのような試験研究装置として、「もんじゅ」の敷地と建物等を可能な限り利用して、ADSの建設をすることをすすめるべきである。
ADSの予備的実験は京都大学原子炉実験所でなされており、より本格的な要素技術開発研究が日本原子力研究開発機構でJ-PARCを利用して行われているので、「もんじゅ」関係の研究者とともにこれらの研究者を結集して本格的なシステムの実現を図ることはできるであろう。
地元は「もんじゅ」が廃炉になることに不満だといわれるが、いつまた事故を起こすかもしれない「もんじゅ」にこだわっているのではなく、研究拠点の存続を求めているのだと察する。そのためにも今後原子力発電を続けるにせよやめるにせよ必要な試験研究用装置である加速器駆動システム(ADS)を敦賀に建設するのが、地元の期待に応える最も良い方法であろう。
象徴天皇制 ― 2016年08月09日 11:31
8月8日午後3時に天皇陛下のお言葉が放送された。初めは高齢になったので若い者と交代したいということだと思って聞いていたが、よく聞いているうちにこれは象徴天皇制そのものの話であると気がついた。
神武天皇を始祖とする天照大神を祭る一族が各地の豪族を征服し大和政権を樹立する。その首長である天皇は政治的も軍事的にも最高の権力を維持する必要があった。その権力の維持のために、たびたび争いがあり、必ずしも安定した王朝ではなかったと思われるが、白村江の敗戦後の外圧を利用して、中央集権的律令制国家を創って天皇の地位を強化したのは天武天皇である。
天武天皇から桓武天皇の頃までは天皇は名実ともに最高権力者であり、豪族あるいは重臣の推挙があってのことはいえ、皇族の世襲制が維持される。皇子が幼少では最高権力者としての役目が果たせないので、その場合は女性皇族が皇子の成長まで皇位につくこともあった。摂政を置くときも皇族であった。
しかし、藤原氏が摂政関白に就くようになると、天皇は政治面での最高権力者とはいえなくなった。鎌倉時代、特に承久の変以後は完全に政治の中心からは遠ざかった。後醍醐天皇が一時親政を行うものの、失敗し、以後明治に到るまで、武家が政治権力者であり、天皇の役割は伝統文化の護持者というものであった。しかし、政治的権力者の地位を降りた天皇制は約1000年間にわたり安定した時期にあったといえる。
明治政府は王政復古を旗印としたので、天皇親政の形を採用しようとするが、その実、その行動は内閣や軍部に制御される仕組みになっていった。「皇太子に生まれることは最大の不幸」と明治憲法を作った伊藤博文が言ったとかいう話があるが、明治維新政府の本質が分かっている者の本音であろう。実力は奪われているのに全責任だけがあるという天皇制は天皇家にとって無力で存続が危うい制度である。この明治憲法下の天皇制をわが国の国体と称して敗戦後も維持しようとした人達がいるが、その思いとは裏腹に、天皇制を安定して長期に守ろうとする人達とはいえない。
幸か不幸か新憲法では天皇は国の象徴、国民統合の象徴ということになった。象徴、symbolとはなにか、ということは新憲法が制定された初めから国民にとってもよく分からないものであった。明治憲法下の制約のある天皇制を知る昭和天皇にとっても多くに政治家にとっても、象徴天皇は天皇制存続のための方便であるという程度の認識であったかもしれないが、それを継がなければならない皇太子にとっては方便では済まされないから、象徴天皇とは何かについて誰よりも真剣に考えておられたのではないか。そして皇位についたとき自分の考える象徴天皇の在り方を実践してこられたのであろう。そしてその経験から、この象徴天皇こそが天皇家を長期にわたり安定的に存続させる道であると確信しておられるのではないかと思われる。それ故にその役割を限りなく減少させることや代役を置くことは象徴天皇の意味を減じ、やがて天皇家の存在意義がなくなると感じておられるのではないか。
生前退位は明治憲法的国体の維持を求める人にとっては認められないのかもしれないが、その国体こそ天皇制にとって危ういものであり、象徴天皇を実質的に機能させることが天皇家を守ることであり、そのためには高齢化して象徴天皇の任務を十分に果たせなくなった場合は退位して後継者に象徴としての役割を十分に果たしてもらうことが必要であるというのが、陛下のお考えであろう。
つまり問われているのは、高齢化対策ではなく、天皇制の在り方そのものの問題なのである。
神武天皇を始祖とする天照大神を祭る一族が各地の豪族を征服し大和政権を樹立する。その首長である天皇は政治的も軍事的にも最高の権力を維持する必要があった。その権力の維持のために、たびたび争いがあり、必ずしも安定した王朝ではなかったと思われるが、白村江の敗戦後の外圧を利用して、中央集権的律令制国家を創って天皇の地位を強化したのは天武天皇である。
天武天皇から桓武天皇の頃までは天皇は名実ともに最高権力者であり、豪族あるいは重臣の推挙があってのことはいえ、皇族の世襲制が維持される。皇子が幼少では最高権力者としての役目が果たせないので、その場合は女性皇族が皇子の成長まで皇位につくこともあった。摂政を置くときも皇族であった。
しかし、藤原氏が摂政関白に就くようになると、天皇は政治面での最高権力者とはいえなくなった。鎌倉時代、特に承久の変以後は完全に政治の中心からは遠ざかった。後醍醐天皇が一時親政を行うものの、失敗し、以後明治に到るまで、武家が政治権力者であり、天皇の役割は伝統文化の護持者というものであった。しかし、政治的権力者の地位を降りた天皇制は約1000年間にわたり安定した時期にあったといえる。
明治政府は王政復古を旗印としたので、天皇親政の形を採用しようとするが、その実、その行動は内閣や軍部に制御される仕組みになっていった。「皇太子に生まれることは最大の不幸」と明治憲法を作った伊藤博文が言ったとかいう話があるが、明治維新政府の本質が分かっている者の本音であろう。実力は奪われているのに全責任だけがあるという天皇制は天皇家にとって無力で存続が危うい制度である。この明治憲法下の天皇制をわが国の国体と称して敗戦後も維持しようとした人達がいるが、その思いとは裏腹に、天皇制を安定して長期に守ろうとする人達とはいえない。
幸か不幸か新憲法では天皇は国の象徴、国民統合の象徴ということになった。象徴、symbolとはなにか、ということは新憲法が制定された初めから国民にとってもよく分からないものであった。明治憲法下の制約のある天皇制を知る昭和天皇にとっても多くに政治家にとっても、象徴天皇は天皇制存続のための方便であるという程度の認識であったかもしれないが、それを継がなければならない皇太子にとっては方便では済まされないから、象徴天皇とは何かについて誰よりも真剣に考えておられたのではないか。そして皇位についたとき自分の考える象徴天皇の在り方を実践してこられたのであろう。そしてその経験から、この象徴天皇こそが天皇家を長期にわたり安定的に存続させる道であると確信しておられるのではないかと思われる。それ故にその役割を限りなく減少させることや代役を置くことは象徴天皇の意味を減じ、やがて天皇家の存在意義がなくなると感じておられるのではないか。
生前退位は明治憲法的国体の維持を求める人にとっては認められないのかもしれないが、その国体こそ天皇制にとって危ういものであり、象徴天皇を実質的に機能させることが天皇家を守ることであり、そのためには高齢化して象徴天皇の任務を十分に果たせなくなった場合は退位して後継者に象徴としての役割を十分に果たしてもらうことが必要であるというのが、陛下のお考えであろう。
つまり問われているのは、高齢化対策ではなく、天皇制の在り方そのものの問題なのである。
「もんじゅ」の運営主体 ― 2016年05月05日 16:44
文部科学省の「もんじゅ」の在り方に関する検討会が「新たな運営主体が備えるべき要件」の骨子案を示した。その要点は以下の4点である。
1. 研究開発段階炉の特性を踏まえた、ナトリウム冷却高速炉にふさわしい保全プログラムの遂行能力を有すること
2. 発電プラントとしての保守管理・品質保証のための体制・能力を有するとともに適切な人材育成ができること
3. 保守管理・品質保証の信頼性の向上に資する情報の収集・活用能力及びナトリウム冷却高速炉に特有な技術力等を有すること
4. 社会の関心・要請を適切に運営に反映できる、強力なガバナンスを有すること
この「骨子案」は原子力規制委員会の指摘に応えているようではあるが、「もんじゅ」の技術面での根本的問題に向き合っていない。
「もんじゅ」が運転停止に到ったのは運転開始後、暫くしていわゆるナトリウム漏れ事件が起こり、その14年後にやっと運転再開にこぎ着けたものの、その直後に炉内中継装置の事故で再び運転停止し今に到っている。このことを最初に問題としなければならない。
さらにその間、保安検査での失態が続いて原子力規制委員会から勧告が突きつけられたということになるが、規制委員会になってからの失態はいわばソフトの問題である。ナトリウム漏れ事件に関しては事故後の隠蔽体質も問題になったが、それを別に考えると、ハードの問題としてはナトリウム漏れ事故と炉内中継装置の事故である。この2件はいずれも初期の設計段階の稚拙な設計ミスであって、現在の所員の能力の問題ではない。このことに触れていない今回の「骨子案」はそもそもの問題点の解決になっていない。
つまり「もんじゅ」は欠陥商品であるおそれがある。それは設計当時の日本の技術力の限界であったというような高級な話ではなく、二つの事故の原因は普通の経験ある機械工学の専門家であれば犯さないような素人的な設計ミスである。したがって他にもそのような設計ミスがあるのではないかという心配がある。製品に問題が無いとして保全だけの能力を求めているのは危険である。
燃料サイクルや高速炉の進め方に関しては現在の「もんじゅ」にこだわらず、新しい考え方をすべきであると、個人的には思うが、かりに「もんじゅ」の運転を目指すのであれば、この「骨子案」の前段階として、まず以下のように進めるべきである。
1. 最初から設計し直すような気持ちを持って、すべての設計図を細部にわたり問題が無いかどうか点検する。そのうえで、設計図と現実の部品等を照合して、設計図通りになっているかどうかを点検する。分解点検も必要となるので、核燃料とナトリウムは作業中「もんじゅ」から撤去保管しておく。旧動燃ではメーカーへの丸投げ体質があったと言われているが、この作業を通じて設計の全てを自分たちのものとする。
2. その作業により現在の基準では適切でない部分が見つかれば改善する。
3. これらの経験を踏まえて適切な保守管理基準と体制を作る。
さしあたり核燃料とナトリウムを「もんじゅ」本体から撤去することで、原子力規制委員会が求める運営主体の当面の能力として、現在の「もんじゅ」関係者が主になった組織でも資格ありとされる可能性はある。
ただし、個人的に「もんじゅ」関係者以外の原子力機構の職員に以上の考えを述べてみると「彼らにそこまで徹底してやる能力も気力も無い」などと言われる。
もしそうなら原子力機構全体として「もんじゅ」のかわりに「もんじゅ」の敷地と施設を可能なかぎり利用する新しい研究開発計画を立案・推進すべきである。
その内容としては、ナトリウム冷却型の高速炉の研究開発は「常陽」を使って基礎実験を行い、設計研究は中断しているFaCTの再開で行い、国際的な共同研究としてはASTRIDで行うことにする一方、「もんじゅ」の現在のミッションである長寿命の放射性廃棄物の減容低減の研究開発は、「もんじゅ」の敷地と設備を可能な限り利用しつつ、すでに基礎研究が始められている加速器駆動システム(ADS)の試験機を建設して開発研究を推進すべきであると考える。
1. 研究開発段階炉の特性を踏まえた、ナトリウム冷却高速炉にふさわしい保全プログラムの遂行能力を有すること
2. 発電プラントとしての保守管理・品質保証のための体制・能力を有するとともに適切な人材育成ができること
3. 保守管理・品質保証の信頼性の向上に資する情報の収集・活用能力及びナトリウム冷却高速炉に特有な技術力等を有すること
4. 社会の関心・要請を適切に運営に反映できる、強力なガバナンスを有すること
この「骨子案」は原子力規制委員会の指摘に応えているようではあるが、「もんじゅ」の技術面での根本的問題に向き合っていない。
「もんじゅ」が運転停止に到ったのは運転開始後、暫くしていわゆるナトリウム漏れ事件が起こり、その14年後にやっと運転再開にこぎ着けたものの、その直後に炉内中継装置の事故で再び運転停止し今に到っている。このことを最初に問題としなければならない。
さらにその間、保安検査での失態が続いて原子力規制委員会から勧告が突きつけられたということになるが、規制委員会になってからの失態はいわばソフトの問題である。ナトリウム漏れ事件に関しては事故後の隠蔽体質も問題になったが、それを別に考えると、ハードの問題としてはナトリウム漏れ事故と炉内中継装置の事故である。この2件はいずれも初期の設計段階の稚拙な設計ミスであって、現在の所員の能力の問題ではない。このことに触れていない今回の「骨子案」はそもそもの問題点の解決になっていない。
つまり「もんじゅ」は欠陥商品であるおそれがある。それは設計当時の日本の技術力の限界であったというような高級な話ではなく、二つの事故の原因は普通の経験ある機械工学の専門家であれば犯さないような素人的な設計ミスである。したがって他にもそのような設計ミスがあるのではないかという心配がある。製品に問題が無いとして保全だけの能力を求めているのは危険である。
燃料サイクルや高速炉の進め方に関しては現在の「もんじゅ」にこだわらず、新しい考え方をすべきであると、個人的には思うが、かりに「もんじゅ」の運転を目指すのであれば、この「骨子案」の前段階として、まず以下のように進めるべきである。
1. 最初から設計し直すような気持ちを持って、すべての設計図を細部にわたり問題が無いかどうか点検する。そのうえで、設計図と現実の部品等を照合して、設計図通りになっているかどうかを点検する。分解点検も必要となるので、核燃料とナトリウムは作業中「もんじゅ」から撤去保管しておく。旧動燃ではメーカーへの丸投げ体質があったと言われているが、この作業を通じて設計の全てを自分たちのものとする。
2. その作業により現在の基準では適切でない部分が見つかれば改善する。
3. これらの経験を踏まえて適切な保守管理基準と体制を作る。
さしあたり核燃料とナトリウムを「もんじゅ」本体から撤去することで、原子力規制委員会が求める運営主体の当面の能力として、現在の「もんじゅ」関係者が主になった組織でも資格ありとされる可能性はある。
ただし、個人的に「もんじゅ」関係者以外の原子力機構の職員に以上の考えを述べてみると「彼らにそこまで徹底してやる能力も気力も無い」などと言われる。
もしそうなら原子力機構全体として「もんじゅ」のかわりに「もんじゅ」の敷地と施設を可能なかぎり利用する新しい研究開発計画を立案・推進すべきである。
その内容としては、ナトリウム冷却型の高速炉の研究開発は「常陽」を使って基礎実験を行い、設計研究は中断しているFaCTの再開で行い、国際的な共同研究としてはASTRIDで行うことにする一方、「もんじゅ」の現在のミッションである長寿命の放射性廃棄物の減容低減の研究開発は、「もんじゅ」の敷地と設備を可能な限り利用しつつ、すでに基礎研究が始められている加速器駆動システム(ADS)の試験機を建設して開発研究を推進すべきであると考える。
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