歴史認識(古代史)2014年02月14日 18:29

 10数万年前にアフリカで生まれた現生人類ホモ・サピエンスは数万年以上前にアフリカから出てユーラシア大陸に渡りオセアニアや、極東からアメリカ大陸へと広がったとされる。一部旧人であるネアンデルタール人との混血もあったとされるが、現在旧人は絶滅し、白色人種・黄色人種・黒色人種(コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド)などの人種は種の違いではなく、同一の種である新人ホモ・サピエンスであり、人種という概念は使うべきでないともいわれている。
 ユーラシア大陸側から日本列島を見るとアジアの辺境にはみ出した最果ての地であり、そこはアフリカから出て遍歴の途中で様々な変化を遂げた人々が、いろいろな方面から流れ着いた吹きだまりの地である。実際DNAによる研究でも日本列島には他の地域には例がないほど多種類の系統の人々が到来したことがうかがえるという。
 後期旧石器時代の氷河で大陸と陸続きだった4万年ほど前、日本列島に到来したのは主に古モンゴロイドと呼ばれる人々である。やがて1万年ほど前に地球が温暖になって大陸と海で隔てられるようになると、新石器時代に入り縄文式土器を使い始める。
 稲作は1万年ほど前に中国南部で始まったとされ、日本列島には縄文時代の終わりには伝わった。その一部は中国南部から直接海を渡って九州などに伝わったと見られる。実際九州などで熱帯性品種が伝来した痕跡が発見された。しかし大部分は主として山東半島を経て朝鮮半島南部に到り、さらに2000年ないし3000年前、朝鮮半島南部からそこにいた新モンゴロイドと呼ばれる人々とともに北九州に到来した。これが弥生時代の始まりである。
 当時の縄文人の骨に戦いによる傷がないことから縄文人は新しく到来した人々と争わず、徐々に交流して混血し、いわゆる弥生人となったと考えられる。到来した人々も朝鮮式の模様のない土器を使うのではなく、縄文式土器よりは単純であるが模様のある弥生式土器を使う。
 大陸に強力な帝国が成立するようになり圧力を受けた人々が半島から吹きだまりの列島へ移住し、これ以上逃げられない列島では共存という生き方が選択された。弥生人は倭人と呼ばれたが、倭人は当然のこととして列島だけでなく半島南部にも多く居住していたので、近代国家のような国境という概念がない時代には、倭という地域がどの範囲であったかは明確ではない。とりわけ伽耶地方は倭との関係が深かったと考えられる。
 中華帝国が強力な時には周辺の国々はその朝貢国となり、弱体化した時には独自の行動をとる。倭では後漢の時代の奴国(1世紀)、魏の時代に邪馬台国を盟主とした倭国(3世紀)、南朝の宋の時代のいわゆる倭の5王(5世紀)の倭国などが中華帝国と冊封関係を結び朝貢し、その首長は中華帝国の皇帝にその地位を王として認められた。なお中国の史書に倭の記述が無い4世紀のこととして倭が朝鮮半島に出兵し百済を支援して高句麗と戦って敗北したことが高句麗の広開土王の碑文に見える。敗北によって生じた高句麗の脅威が倭の5王の中国南朝への朝貢の理由とも考えられる。
 邪馬台国の卑弥呼は中国の史書にのみ見られ、倭の歴史認識を示す「古事記」には記述がなく代わりに国譲りが記述されていることから、卑弥呼から5王の最後の武(雄略天皇と考えられている)までの間に内戦があり、倭国王は纒向遺跡の地を拠点とする出雲系勢力の王から河内古墳群の地を拠点とする勢力の王に王統が交代したと考えられる。しかし古事記では神武以来万世一系の王統を歴史認識として記すために卑弥呼の倭国は歴史から抹殺せざるを得なかったのであろう。
 半島や大陸の出身者が進んだ技術を携えて移住してきた。彼らは渡来人といわれる。とりわけ優れた鉄を生産する伽耶地方との関係は深かった。倭の豪族たちはそれぞれに半島の国々と交流していたので豪族たちの政治力は半島の情勢を反映していた。雄略天皇の頃にはヤマト政権は半島南部の西に位置する百済と親交を結び東の新羅と対峙してその間にある伽耶地方の権益を守る政策をとる。雄略天皇の頃以後に朝鮮半島から到来した人々はそれ以前の人々と区別して今来の渡来人といわれる。
 しかし雄略天皇の系統が断絶した後、遠隔の地にいた継体天皇が即位したため政権が強固になるための時間がかかる。これも実は王統の交代ではないかともいわれるが、日本の史書は継体を応神天皇5世の孫として万世一系の辻褄を合わせている。
 この頃倭は百済に伽耶の地の一部支配を認める一方で新羅に対抗すべく出兵しようとするが、新羅と通じていた九州の磐井の抵抗に遭い、反乱は鎮圧するものの半島への出兵には失敗するようなこともあった。最終的には任那と称していた金官伽耶は新羅に奪われ、倭は半島での権益を失う。この後も倭の外交政策は百済と同盟して新羅に対抗するようになるが、やがて唐が中華帝国として強大になると半島では新羅が唐と結ぶ一方、高句麗や百済は唐と対抗するなど唐に対する対応が分かれた。
 倭でも皇族や豪族たちの間に外交方針の差が見られたため、唐に対抗する強力な中央集権国家の建設の必要性を感じた中大兄皇子(後の天智天皇)は豪族たちの首領であった蘇我氏をクーデターで倒し、唐の制度をまねて天皇を頂点とする律令国家の建設をめざした。半島では、唐と組んだ新羅が高句麗を滅ぼし、最終的には百済も滅ぼして半島を統一する。その後の倭は百済の再興を試みるが、最終的に天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北し、以後半島政策を放棄することになる。敗戦後の倭は唐の侵攻に備えるために朝鮮式の城を築くなど臨戦態勢をとるとともに天皇を中心とする中央集権的律令制度作りを急ぐ。律令制の法整備は天智天皇の死後の権力闘争に勝利した天武天皇の時代に整ったとされる。天武天皇がこの権力闘争の時に戦勝祈願をしたことから伊勢神宮が大和朝廷の守護神の地位を占めるようになったといわれる。
 天武天皇は全国に通じる幅の広い高規格の直線的道路を建設し、全土の支配と集権化を進める。国家意識の確立のために古事記、日本書紀が編纂される。初めて倭国ではなく日本国の歴史が創られたのである。歴史認識上の「日本」という国の始まりである。その後、平安京に遷都した桓武天皇の頃までは蝦夷地などの支配を強化するため辺境での征服戦争が続けられる。これらは全て唐という大国の出現に対処するためのいわば非常時体制とも考えられる。やがて唐の脅威が減少してくると臨戦態勢は緩んでくる。中大兄皇子のクーデター(乙巳の変、いわゆる大化の改新)をもって「日本国」の成立とすれば、その歴史認識は強大な中華帝国の存在に強く影響されたものといえる。
 日本はかろうじて独立を保ち、ミニ中華帝国を形成できたが、陸続きの国々はより厳しい状況におかれた。朝鮮半島の国々やベトナムは中華帝国と冊封関係を結んで朝貢国となり、いわば自治領化された。このような中華帝国の周辺国への扱いは近代の清朝の時代まで続く。中国が強国になれば、かつて朝貢国であった朝鮮や琉球やベトナムなどを勢力圏あるいは領土であると言い出すことは彼らの歴史認識からすれば自然なのであろう。

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